ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

           恐るべき頭の悪さ(2009/04/20)



      ここまで頭が悪いと、いっそ清々しい(嘘

 a bull pop ワトソン レストレードびいきのシャーロッキアン見習いが綴るぶろぐ というブログがあります。わたしの友人のご子息が心臓移植手術を受けるときに、その募金に対し、下品で無礼な文言を得々と綴ったブログです。その情熱をもっと別のものに向ければ、今よりはましな生活がおくれるのではないかと思うほど、そうした類の募金に関してデータを集め、難癖をつけたのですが、その論旨は一貫していて、給料のいい会社に勤めているのだから、自分たちで賄って、赤の他人に頼むななのです。それに対してここで反論するつもりはありません。こうした輩は理路整然と反論されても、自分が論破されていることすら分からず、単に相手にされたということで喜ぶレベルの人間だからです。
 このブログ主、個人名、企業名を列挙して、寄付を募る人間を詐欺師のように糾弾し、自分はそれに鉄槌を下す正義の味方を気取って大見得を切っていましたが、ある日、こんなことを書きました。

 美談ですね~と感心する前に、あらためて説明しておきましょう。
 ●●さんはテレビ山梨(UTY)の社員です。 以前はネット上にも載っていましたが、「救う会」の本格的活動がはじまるのと同時にUTY社員であるという記述だけ削除しています。
「●●さんを救う会」の会長は、金子元総理の長男で、テレビ山梨のトップです。
「●●さんを救う会」の副会長は、南アルプス市市長です。 昨年十二月の議会で全会一致で、この「救う会」を支援していくと決定しています。 メディアが大々的に取り上げるのも当然です。 ××店長はもちろん、そのこともご存じでしょう。
 さあ、皆さんご一緒に。 美談ですね~。
(伏字、太字は、引用者)

 コピペしただけで魂が腐るような酷い文章ですが、それにしたって、金子元総理はないでしょう。これがケアレスミスでない証拠には、このあと何度もこの金子元総理の名前が出てきます。

 大金がかかるからといわれていますが、たとえば「●●さんを救う会」の会長は金子元総理の長男ですよ。

 テレビ山梨会長で金子元総理の長男が「救う会」会長をつとめているんですから、心配する必要ないでしょうけどね。

 しかもそれを指摘されながら気が付かずに推移して、ある日やっとこんなことを書いたのです。

 有名ミステリー作家の藤岡真さんをはじめとする訪問者の方々に指摘していただきましたが、当ブログで金子だの元総理だの言っていた人物は金丸元副総裁だったようです。 謹んで訂正してお詫び申し上げます。 また、指摘してくださった方々にお礼申し上げます。

 驚きますね。終始上から目線で他人を散々なじり、馬鹿にして、自分が歴代の総理大臣の名も知らなければ、「金丸信」という人物も知らなかったというみっともない事実が露見したというのに、てんから羞じずに、金丸元副総裁だったようですなんてことを平気で書く。
 街頭で政府批判の演説をしている弁士のほっぺたに、バカボンみたいなぐるぐるマークが描いてあるようで、笑う以前に気味悪くなります。普通の人間なら恥ずかしくて半年くらいは立ち直れないことなんですがねえ。
(付記;現在公開されている日記では、当然ながら「金丸副総裁」に書き直されています) 
 こんな人物が、4月13日の日記にこんなことを書いています。

 「ハンチョウ」第一回
 ようやく放送されましたね。
 ドラマ化によって注目度があがったせいか、このブログにも安積班関連のキーワードで検索していらっしゃる人が増えたようです。 必然的に、原作者・今野敏先生の友人である藤岡真氏(博報堂)が当ブログに書き込んだコメントについて、感想やらメッセージやらを時々いただくことが増えましたが、おのおのがご自身で考え抜いた上で結論を出していただきたいです。 心配してくださった方々には心よりお礼申し上げます。
 ただ、今日のひるおびを見て、佐々木蔵之介さんが元広告代理店勤務だというところにひっかかったので検索してみました。
 広告代理店 大広 ……博報堂つながりですか。
 ちょっとげんなり。
 テンションさがりまくりですけど、気を取り直してドラマについて盛り上がってみましょう。


 はて。今野敏先生とわたしが友達だという理由で、「必然的に~藤岡真氏(博報堂)が当ブログに書き込んだコメントについて、感想やらメッセージやらを時々いただくことが増えました」とはいかなることでしょう。本気でそう思っているなら――名誉毀損になりそうなのでやめておきますが、普通の人間には理解できない思考回路ですね。いや、それはまだいいのです。「佐々木蔵之介さんが元広告代理店勤務だというところにひっかかったので検索してみました。広告代理店 大広 ……博報堂つながりですか。ちょっとげんなり。テンションさがりまくりです」なんでしょうか、この文章は。わ、やっぱ、この人ちょっと(というか、うんと)危ないわ。
 こうした文章を恥ずかしげもなく掲げるということは(破廉恥ではなくて、意味盲という意味で)大変怖いことだと思います。


       モーリス・ジャールと『第三の男』(2009/04/17)




 某酒場のカウンターで、アートディレクターのA氏と呑んでいた。
 A氏はおれと同い年、中村吉右衛門の義理の弟という人である。杯を重ね、その日訃報を聞いた、映画音楽の巨匠モーリス・ジャールの話になった。 ジャールが音楽を書いた『シベールの日曜日』『史上最大の作戦』『ドクトル・ジバゴ』『アラビアのロレンス』と話が進むうちに、A氏がこんなことを言った。
「前々から気になっていたんだけど『アラビアのロレンス』と『野生のエルザ』のテーマ音楽って似てない?」
 ああ、それは、おれもずっと思っていたことだ。
「あれ、誰が作曲したの?」
「確か、エルマー・バーンスタイン、いや、ジョン・バリーだ」
「ジーン・バリーの『バークにまかせろ』テーマも、頭のところが似てるんだよな。あれも、ジョン・バリーじゃなかったか(ややこしくてすみません)」
「さあ……。『スター・ウォーズ』と『スーパー・マン』と『『ET』のテーマも似てるよね』
「あれは作曲した人が同じだから」
「しかし、ドミトリー・ティオムキンとかモーリス・ジャールとかジョン・ウィリアムズって、映画音楽の巨匠ってイメージがあるけど、エルマー・バーンスタインってちょっと影が薄いね」
 確かに、『十戒』『黄金の腕』『荒野の七人』『大脱走』なんかの作者の割には印象が薄い。ここで、『荒野の七人』『大脱走』から、ジョン・スタージェスの話になり、「三大ジョン(ジョン・スタージェス、ジョン・フォード、ジョン・ヒューストン)の話になるのだが、長くなるので割愛。
「やっぱり、同時代にレナード・バーンスタインって人がいたからじゃないかな」
 ベルリン・フィルのカラヤンとニューヨーク・フィルのバーンスタインは指揮者として、長く人気を二分していた(少なくともレコード界では)。しかも、レナード・バーンスタインはあの『ウエストサイド・ストーリー』『波止場』の作曲家でもあるのだ。確かに知名度はエルーマーより高い。
 ええと。
 そうだ。A氏は若かりしころ『ウエストサイド・ストーリー』のオリジナルキャスト(ジョージ・チャキリス他)の公演を見に行かんとしたのだが、キップが手に入らず(前売り券がまだ残っていることを電話で確認して買いに行った。電話で予約できるなんて思ってもいなかったそうだ。案の定タッチの差で売り切れ)、失意のまま日比谷を歩いていて、マイ・フェア・レディの映画を見たそうな。
 因みにおれは高校時代、マイ・フェア・レディの中の曲を全部唄えた。歌詞カードとLPで徹底的に練習したのだ。なぜかって? ヘップバーンのファンだったから。で、その話題になる。“I Could Have Danced All Night”とか“With A Little Bit Of Luck”とか。
“On the Street Where You Live”の冒頭の部分を唄ってみせ(囁くように美声で唄えば、叩き出されたりしない)、
「この歌唄ってた、若造の貴族誰だか知ってる」
「さあ?」
「ジェレミー・ブレット」
「おや、あのシャーロック・ホームズの」
「うん。演奏は、イケメンの指揮者&ピアニストのアンドレ・プレヴィン」
 アンドレ・プレヴィンは2009年9月からNHK交響楽団の首席指揮者になる。その関係で先日N響アワーに出演していたが、老眼鏡を鼻に乗せた肥大老人になっていた。嗚呼。
「ヒギンズ教授はレックス・ハリスン」
 で、ハリスンがシーザーを演じていた『クレオパトラ』でアントニイを演じていたのがリチャード・バートンで、以下、エリザベス・テーラーの結婚相手の話になり、長くなるので割愛。4度目の夫をエドウィン・フィッシャーと言ってしまったが、エディ・フィッシャーの間違い。エドウィン・フィッシャーはピアニストだった。バッハの演奏は絶品である。
「ピッカリング大佐をやっていたのは、ウィルフレッド・ハイド・ホワイトだったなあ」
「この前コロンボに出てた(何度目の再放送だ)」
「『怪船マジック・クリスチャン』で船長の役をやってた」
「『第三の男』のGHQの―」
 かくして話題は『第三の男』となり、延々と続くのであった。

 すみませんそれだけのことです。

 しかし、こんな話をしながら酒を呑むのは愉しいなあ。


         Probabilityの犯罪(2009/04/15)




 唐沢俊一が最新の“社会派くんがゆく!”でまたガセを書いている。
 中学生が担任の妊娠中の教師を流産させようとした犯罪、「先生を流産させる会」について語っているのだが。

唐沢●おまけに手口が給食にミョウバン混ぜるとか、椅子のねじを緩めるとか、ほとんどが江戸川乱歩言うところの“プロバビリティの犯罪”(相手に直接的な暴力を加えるのではなく、間接的な仕掛けで少しづつ危害を加えて、結果的に死に至らしめるという方法)に過ぎないんだな。どうにもショボいところが情けない。

 唐沢の言から推すと“プロバビリティの犯罪”とは、小さなダメージを蓄積させて相手を死に至らしめる(今回の場合は“流産”だが)犯罪のように思えるだろうが、そうではない。“プロバビリティの犯罪”は通常“蓋然性の犯罪”と呼ばれ、平たく言えば“確率の犯罪”のことである。この命名者は唐沢の言うとおり江戸川乱歩である。乱歩は谷崎潤一郎の「途上」という短編に触発されて「赤い部屋」という小説を書いたが、そこで披露される犯罪の数々がこのプロバビリティの犯罪なのだ。
 プロバビリティの犯罪に関しては、雑誌<探偵小説>2号[1983.12.26]に適切な解説が載っている。それを紹介している「宮澤の探偵小説頁」というサイトがあったので、引用させてもらう。因みにこのサイトではわたしの『ゲッベルスの贈り物』『六色金神殺人事件』に対して過褒とも言える様な好意的な書評が掲載されている。
(ネタばれなんで前半だけ反転します。)

 夜の散歩中、自動車の運転手に呼び止められた。通行人をはねてしまって医者を探しているのだという。近所には設備のいい外科医院と下手な内科医院があったが、わざと下手な方を教えた。そこに運び込まれた怪我人は手当てのかいもなく死亡し、運転手は罪に問われた。
 その家には小さな子供がいて、夫婦の寝室は二階にあった。子供の小さな人形を階段の途中に置いておいたところ、夜中に起き出した妻が、階段を転落して首の骨を折った。もちろんこれは不慮の事故として処理された。
 家は燃えていた。焼け出され茫然としていた若妻に
 「奥さん、あなたのお子さんがまだ中にいますよ!」
と告げると、火の中に駆け込んでいった。彼女は焼死体で発見されたが、二人の子供は無事だった。もとより中にはいなかったのだ。
 右に述べた三つの事例には共通する点が二つある。第一には犯罪とは言えないことである。最初の例で責めを負うのは自分の義務を果たした運転手や医者であるし、二番目の例は犯罪であることすらわからない。三番目の例では、火事場で何を言おうと聞きつける者もいないし、仮に聞かれようと、本当にその時はそう思ったんだ、と強弁すれば済むことである。
 第二に、これには偶然の要素がかなりの強さで関わるということである。怪我人は持ち直すかもしれないし、階段を必ず踏み外すとも限らない。火の中に飛び込む前に人に止められるのは大いにありうることである。

 よってこれを蓋然性(プロバビリティー)の犯罪という。各々の犯罪が成功する確率は小さい。だが、それを無限に繰り返してやることによってその確率は必ず1となる。そのとき殺人が遂行される。相手の喉をかき切ったのと同じくらい確実に。しかもこの種の犯罪を法で罰することは絶対に不可能である。
 ここで筆者の言いたいのは、読者の愛妻が酒や煙草の買い置きを切らさず、御馳走ばかり作るときには、密かに生命保険に加入させられていないか調べた方が懸命ではないかということである。


“プロバビリティの犯罪”の犯罪がどんなものかお分かりいただけたと思う。確率は低くても数撃てばあたるだろうという考え方なのだ。だから、最初の企みが即成功することだってあり得るのである(上の三つの例がそれである)。もしかしたら唐沢はこのサイトを参考にしたのかも知れない(“プロバビリティの犯罪”でGoogle検索すると、ここがトップで示される)。「各々の犯罪が成功する確率は小さい。だが、それを無限に繰り返してやることによってその確率は必ず1となる」という部分を読み、意味を取り違えたのではなかろうか、というのは穿ち過ぎかしら。


            ナポレオン(2009/04/15)



            また昔の映画の話かよ

 DVDでアベル・ガンスの『ナポレオン』前半。安売りでもないのについ、このDVDを買ってしまったのは あまりに懐かしかったから。二十代の頃、家に友達を呼んでは しょちゅう(ママ)このビデオの観賞会をやっていた。 少年時代のナポレオンを演じるウラジミール・ルーデンコの 美少年なこと。アントナン・アルトーが演じている(!) マラーは少し美形すぎる気がするが。
4月12日の裏モノ日記から)

 唐沢俊一がアベル・ガンス『ナポレオン』のファンだったとは知らなんだ。しょっちゅうビデオの鑑賞会を開いていた家とは、青学時代の阿佐ヶ谷の下宿か、東北薬科大学時代の仙台か、はてまた唐沢薬局事務員時代の札幌か。ろくなものも食わずに起き上がることも出来なかった学生時代に、そんな余裕があったとも思えないし、薬剤師にもなれずに店を継げぬ穀潰しが、「しょちゅう(しょっちゅう、だろうな)」ビデオ鑑賞会を行っていたとも思えない(唐沢ならあるかも知れないが)。
 まあ、学生時代の話と友達の話は封印している唐沢の貴重な20代の逸話だが、やっぱりちょっとへんだよな。「安売りでもないのについ、このDVDを買ってしまった」ってどういう意味? そうした青春時代の思い入れがない限り、DVDは総て安売りを買っているってこと? そして、笑ってしまうのが、「アントナン・アルトーが演じている(!) マラー」という文章だ。この(!)はなんのつもりなんだろうか。アントナン・アルトーは俳優兼劇作家兼詩人。マラーを演じても、ことさら(!)といった人物ではない。まあ、現在で言えば「ウッディ・アレンが演じている(!)」と書くようなものだ。唐沢はwikiあたりでアントナン・アルトーがどんな人物か知ったのだろう。そして、「あの偉大な詩人のアントナン・アルトーが、ここでは俳優として演じている(!)」と知ったかぶりをしたのだな。
 しかし、本当に最近の映画は見ていないねえ。


            すっぱい葡萄(2009/04/15)




 手に入れたくてたまらないのに、いくら努力しても手が届かない対象(人、物、地位、階級など)がある場合、その対象を価値の無いもの、低級で自分にふさわしくないものとみなす事であきらめ、心の平安を得る。フロイトの心理学において防衛機制、合理化の例として有名。また、英語圏において"Sour Grapes"は「負け惜しみ」を意味する熟語にもなっている。
Wikipediaより)

 なるほど。
 手塚治虫、イチロー、ガンダム、ゴジラ、ナチュラリスト、etcetc

 なるほど。


             美味しい唐沢(2009/04/14)



 唐沢がまたおかしなことを書いて「突っ込んでくれ!」と懇願しているようなので、リクエストにお応えしよう(あまりおねだりして、そのケのある連中に「おやかったモノ」を突っ込まれても知らないよ)w

 記憶に残すべきは鏑木創の幻想的な音楽とやはり幻想的な 桂長四郎の美術だろう。眼が肥えている筈の現代の映画ファンに、このセンスを受容できるだけの許容度があるだろうか?
4月11日の裏モノ日記から)

 中島貞夫監督『くノ一忍法』(1964年)について書いているのだが、この数ヶ月唐沢の日記にはこの手の話が顕著に見受けられる。総ては昔の映画は凄い、今はこんな映画作れないという論法で、親父の昔は良かった論ともとれるが、リアルタイムで見ていたはずもない作品がほとんどなのだ。この映画だって6歳の唐沢がリアルタイムで見たのではなく、現在の唐沢がDVDで見ているんだが。いや、それが悪いと言っているのではない。問題は、唐沢が現代の映画を全く見ていない(日記に、試写を含め映画を見たという記述が一切ない)ことだ。日記に書いていないだけとは思えない。通りすがりの婆ぁがすれ違い様に、自分の顔を見て「いいものを見た」といった表情をしたなんてことを嬉々として書き、毎晩ホッピーの肴にDVDを見た(これがまた古い映画ばかり)と書きながら、映画に関する著作(自費出版)もある唐沢が、一言も触れないというのはどう考えたって不自然だ。最近の映画を見もしないでなんと比較しているんだろう。

 ところで。

 眼が肥えている筈の現代の映画ファンに、このセンスを受容できるだけの許容度があるだろうか?

 って、どういう意味。「眼が肥えている筈の現代の映画ファン」という言い回しがまず変。「筈の」と書いたら「~な筈なのに、そうではない」といった否定的な論旨になると思うよね。つまり「眼が肥えている筈の現代の映画ファン」には、「桂長四郎の美術」の良さが分からないとれる、と思って先を読むと、このセンスを受容できるだけの許容度があるだろうか?とくる。「許容度」ってなんですか? 辞書にも載っていない言葉。ネット上だと「リスク許容度」という語は見つかるけど。多分「このセンスを許容できるだけの度量があるだろうか?」と書きたかったんだと思う。しかし、これも変、許容とは「大目にみること」という意味だからだ。「この(酷い)センスを大目にみられるだろうか」じゃ、桂長四郎を貶すことになる。
 唐沢は、最近の映画は全く見ていないし、その知識もない。だから、現代の映画ファンに対してはコンプレックスを持っている。そこをなんとか日記で腐して憂さを晴らそうとしたのだ。つまり、

 現代の映画ファンなんか、「目が肥えている」と自負しているようだが、この昔の「桂長四郎の美術」の良さが分かるような教養を持ち合わせてはいないんである。

 と振りかぶりたかったのに、文才がないところにホッピーが効き過ぎて、かくも無残な文章になったわけなんである。


        読まずに批評を書くことの恐ろしさ(2009/04/14)



             反省します

 いやあ驚いた。思い込みとは、恐ろしいものだ。
 唐沢が『エンサイスロペディア』というコラムを連載している『パチスロ必勝ガイドNEO』について、唐沢俊一検証blogにこんなことが書かれていた。

 あと『パチスロ必勝ガイドNEO』は本屋で見つけるのがすごく大変です。本当にどこにも置いてないんだ。
4月9日のコメントに対する返し

 実はまさにその通りで、わたしも、土日に都内の目ぼしい本屋をざっと廻ったのに見つけられなかった。仕方ないので、「白夜書房の公式サイト」を参照していたのだ。タイトルが「パチンコ&パチスロ必勝ガイド」となっていたので、てっきりパチンコとパチスロの攻略に関する雑誌なのかと思っていた。だから、『エンサイスロペディア』第19回の『24-TWENTY FOUR-』に関する記述(雑誌が手元にないので、検証blogからのコピペです)、

  パチスロの魅力というのは何か、と言えば、先行きが見えないところだろう。当然で、毎回、今日は必ず勝つ、あるいは必ず負ける、などとわかっていては、面白みも半減する。勝つか負けるか、出がいいかどうか、大当たりになるかどうかは、テクで左右されるとはいえ、神様にしかその結果がわからない。ドラマというものも、先行きが見えてしまっては面白くない。見ている方をしてアッ!と声をあげさせるような展開があって初めて面白い。

「出がいいかどうか」というのも、パチンコのことをさして言っているのだと思っていた(それ以前に、まったく無内容で、ページ数稼ぎなのは、kensyouhanさんの指摘通りなんだけどね)。ところが、2008年3月号に掲載された『エンサイスロペディア』第10回で、唐沢俊一は『インディ・ジョーンズ』について、こんなことを書いていたというのである。これもまた、検証blogからのコピペです。

 パチスロをずっと打ち続けていて、それが夢に出てくることというのがないだろうか。夢の中で自分が玉になって、穴の中に落ちていったり、また玉に追いかけられたりしたことが、昔は筆者にもよくあった。聞いてみると、大抵のパチスロ・パチンコファンもそうであるらしい。  だから、『インディ・ジョーンズ』シリーズの第一作、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の、冒頭の、巨大な丸い岩に主人公が追われるシーンを見て、パチンコファンの友人たちと、“スピルバーグというのはパチンコにハマったことがあるんじゃないかね”と、笑ったものである。

 これに対して、わたしは、検証blogのコメント欄にこんなことを書いた。

>あと、例の岩がゴロゴロ転がってくるシーンは
 なんと言っても、キートンの『セブンチャンス』でしょうねえ(バイオ・ハザードにもありましたけど(何回死んだか))。『セブンチャンス』では丸い巨岩が何十個と転がってくるので、ピンボールのイメージはこちらの方が強い。 パチンコにはまっていた頃、パチンコの夢はよくみましたが、自分が玉になったことはありません(盤面をごうごうと大河の如く玉が流れていく夢でした)。『インディ・ジョーンズ』だって、玉に追いかけられているだけで、玉になっているわけではないし。


 そう書き込んでから、他の人のコメントを読んで、思わず「えーっ!」と声を出してしまった。唐沢の文章の冒頭をもう一度見てみよう。
 
 パチスロをずっと打ち続けていて、それが夢に出てくることというのがないだろうか。夢の中で自分が玉になって、穴の中に落ちていったり、また玉に追いかけられたりしたことが、昔は筆者にもよくあった。

 はい? パチスロを打ち続ける? 自分が玉になって、穴の中に落ちて? おいおい、それはパチンコの話だろうと、もう一度コメント欄を総て読み直して、とんでもない事実に気付かされた。
 当たり前の話だが、『パチスロ必勝ガイドNEO』というのはパチスロの雑誌なのだ。白夜書房のサイトでは『パチンコ必勝ガイド』『パチスロ必勝ガイド』をひっくるめて、『パチンコ&パチスロ必勝ガイド』というタイトルを付けていただけだった。『パチスロ必勝ガイドNEO』にはパチンコのことは載っていない。だから唐沢のこれまでの記述は総て、『パチスロ』という設定で書かれていたのだ。実際に雑誌を見ずにいたので、とんだ勘違いをしていた。読みもしないで憶測で書いていたのは汗顔の至り。反省します。
 しかし、もっと酷いのは唐沢の方である。こいつはパチスロがどんなものであるかも知らず、なおかつ掲載誌がなんの専門誌かも知らず、ずっとコラムを執筆していたのだ。フィギュアの専門誌に、「バルキリー」と「ガンダム」を取り違えて書いているくらいみっともないことなんだが、なんで読者から指摘がなかったのだろう。こんなつまらない連載、誰も読んでいないということなのか。
 コメント欄では、「garo13」という方が、

この人、完全にパチンコとパチスロを混同しているようですね。 「昔は筆者にもよくあった」などと書いていますが、本当にパチスロやパチンコをやったことがあるのでしょうか? 「パチスロも~なかなか出ないときは悪夢みたいなものであり」と書いていますが、パチスロは「出る、出ない」ではなく「揃える、揃わない」「引く、引かない」と言います。 この場合なら「なかなか揃わないときには」「なかなかBIGを引けないときには」と言いますが、間違っても「なかなか出ないとき」などとは言いません。 このページで引用している文章だけから判断する限り、この人は、パチスロも、パチンコのように玉を打って穴に入ると玉がジャラジャラと出てくるゲームだと思い込んでいるのではないでしょうか? もしかすると、一度も実機を見たこともなく、「パチスロ」という名称から「パチンコ+スロットマシン」だと思い込んでいるのでは? 兎に角、こんなデタラメな文章がパチスロの専門誌に掲載されているのならば、全ての読者が私と同じように感じたと思います。

 と指摘し、「よく通したな編集」というHNの方が、

 パチスロは玉を一切使いません。
 それなのに、この原稿、よく編集部が通したものです。
 確実に唐沢はパチスロというものを知らないのでしょう。


 と書き込んでいる。

 パチスロとは、言うまでもなくスロットマシンのことである(スロットルマシンではないぞ)。パチンコ屋の台のスペースにぴたりと収まるサイズにしたのでパチスロと呼ばれるようになったのだ。因みにこれが、唐沢が2008年3月号で取り上げていた、インディ・ジョーンズのパチスロである。

 ぱちすろ
SANKYOのサイトから転用)

 これが、パチンコみたいに玉を打つ遊具でないことは一目瞭然だろう。つまり『パチスロ必勝ガイドNEO』での唐沢の仕事は、

 自分が執筆している雑誌を読んだことがなく、その雑誌で取り上げている遊具に関する知識が皆無なため無関係なことを書き捲くり、しかも、それすらおざなりな内容で、なおかつ、編集者も一切原稿を読まず、チェックもせず、読者からも完璧に無視されているので、その内容が間違っていることが指摘されずに、毎月恥知らずなガセを垂れ流す

 という酷いものなのだ。
 いや、唐沢さん。本当にあんたは美味しいよ。


           トテカワさんどうしているかしら(2009/04/13)



 唐沢俊一が、4月10日の裏モノ日記にまたおかしなことを書いている。こうしばしばだと、突っ込んでもらいたくてわざと書いているのではと邪推してしまうね。まんまと策にはまっているのかしら(今頃気付いたか)。

 バナナリンゴニンジンジュース(長いと思うが、これを “バリニジュース”とか“ABCジュース”とか名付けて そのシャレっ気を喜ぶ、というセンスが私にはない。むしろ 鳥肌が立つ。いい家の出でない証拠みたいなものである)

 なに、このしょうもない文章。なにが「シャレっ気」なんでしょうか。「いい家の出でない証拠みたいなものである」なんて、あんたが生まれも育ちも劣悪な生まれはともかく、育ちは劣悪なことは日頃の言動を通して皆様、よおっくご存知なんで、別にわざわざ断わることもないし。

 幻冬舎の女性編集者が「トテモカワイイ」ので、トテカワさんと呼ぶような、鳥肌が立つようなことを得々としてやっていたのはあんたじゃなかったのかね。
 まさか、その「シャレっ気」「いい家の出である証拠である」なんて言うんじゃあるまいね。
 もう、日記公表するのやめたら?

※ 一部不適切な表現がありましたので、訂正しました。


            文章の書き方(2009/04/12)



       唐沢俊一の書く文章はなんでヘンテコなのか。

 ガセとパクリは、もはや日常茶飯事。誤字脱字、推敲にも校正にも無縁な酷い文章。だが、それ以前に支離滅裂さ論旨の飛躍はどんどん顕著になっている。なんでこんなにヘンテコになってしまったのか。ちょいとそれを検証してみたい。
 唐沢には文章で身を立てたいという夢があった。まあ、少なくともこれまでの言動を見るにつけ、まっとうな会社勤めなんかは無理だと思うから、それは当然の選択だろう。もっとも、苦労せずに、一気に一人前と認められたいという身勝手な根性も見え見えで、それが常に「偉そうな=上から目線」という態度になって現れている。つまり、ちゃんと文章修行をしなかったわけで、そのツケが今頃廻ってきたのだろう。
 他人を悪し様に言う人間が、ガセとパクリを繰り返し、まともな文章を書こうとしても、無教養で常識もないから無理な上に、言葉遣いまで間違っているとあっては、本来なら恥ずかしくて表を歩くことすら出来ないはずだが、恥知らずという生来の性格のおかげで、今も余命を保っているようだ。
 
 実家の薬屋でPCに打ち込みしながら、ボディビルに凝って、白衣の下はブーメラン型のブリーフ一枚と、精神的にぶっ壊れかけていたのが、弟の七光で文筆業を始められ、再び東京の地を踏んだときの、唐沢の心境は、想像に難くない。
 これは地方出身者の大きな通過儀礼なのだ。つまり、一生生まれた田舎で過ごすのか、東京人として生きていけるのか。唐沢は紆余曲折の末、やっとこさ文筆業を生業に出来るようになり、いまや数十という著作を上梓しているということは、その内容に目を瞑れば慶賀と申し上げるしかない。
 そうした、夢を抱いて上京してきた人間の言葉を引いて、唐沢はこんな文章を書いている。4月6日の裏モノ日記から。

 たかぎなおこ『浮き草デイズ』(文藝春秋)の中に、地方から 出てきた著者が、プロになって何冊も本を出した今でも、 桜の季節になると「ああ、今年も東京で桜が見られたな」と感慨にふけってしまうというくだりがあり、ちょっと涙が出そうになった。今の私はもう田舎に帰る家もなく、たとえ野垂れ死にを するにせよ東京で、ということになるだろうが、しかし 桜の季節になると、いいことも悪いことも含め、思い千々に乱れるのである。逆に言うと、桜という罪な花の呪縛に日本人は永久に 捕らわれて、“一年”という単位でしか人生を区切れなくなっているのではないか、と思う。

 ちょっといい話を語るのかと思いきや、なんかヘンテコな結論になっているでしょう。いや、この文章最初から可なり変なのだ。
 たかぎなおこ『浮き草デイズ』は、夢を抱いて上京してきたたかぎの自叙伝である。お金も仕事も友達もないという状況、でも暗くはならずに、夢を実現させていく様をほのぼのと綴っている。イラストレーターとして成功した今も、
「ああ、今年も東京で桜が見られたな」と感慨にふけってしまうという想いは、失敗したら東京に住んでいられなくなるという不安感から生まれるものだ。ところが、唐沢はそこからこんな自分語りをする。
 
 ちょっと涙が出そうになった。今の私はもう田舎に帰る家もなく、たとえ野垂れ死にをするにせよ東京で、ということになるだろうが、しかし 桜の季節になると、いいことも悪いことも含め、思い千々に乱れるのである。

 おかしいでしょう。唐沢は東京人ぶって、帰る家がないなんて書いているけど、本当の東京人にはそんな感慨はありっこないのだ。失脚すれば失意の目で東京の桜を眺めるだけのこと。つまり、夢破れて都落ちしていく人間の「東京の桜」に対する思い入れとは全然違うのだ。
 わたしもそうだが、東京(首都圏)に生まれ育った人間は、その地の学校に通い、その地の仕事に就くことを当然だと思っている。いや、私淑する学者を慕って地方の大学に行くとか、積極的に東京を離れるというケースもあるだろうけど、一生地元で生きるのか東京に行くのかという二者択一で悩むなんてことは当然ながらない。別にそれが偉いと言っているわけではない。生粋の江戸っ子植草甚一は、地方出身者が青雲の志に燃えて上京し、志が果たせなければ死すとも帰らずの覚悟で臨んでいるときに、東京の人間は「こんなこと言ったら恥ずかしくないかしら」なんてことを考えながら生きているのだから、なにをやっても敵いっこないと看破している。その通りだと思う。
 帰る地のない唐沢は、桜の花になにを思うのか。ガセとパクリがばれ、雑学王の名は一敗地に塗れ、心ある友人は去り、いや、上辺だけは取り繕って接して来る人間だって、心の中では「この盗作野郎が」とせせら笑っているに違いない。そうした疑心暗鬼に「いいことも悪いことも含め、思い千々に乱れるのである」となってしまうのだから、たかぎなおこの想いとは全然別のものだと言っていいだろう。つまり冒頭でたかぎなおこの言葉を引く意味は全くないのだ。さらに、

 逆に言うと、桜という罪な花の呪縛に日本人は永久に 捕らわれて、“一年”という単位でしか人生を区切れなくなっているのではないか、と思う。

 と続けるが、これまた訳のわからん文章だね。「逆に言うと」というのもよく分からんが、2ちゃんねるでも散々指摘されていた「“一年”という単位でしか人生を区切れなくなっている」という文章の酷さは反論する気さえ失せさせる。人生を区切るとはなんぞや。いや、十年二十年という長期的なスパンで物事が考えられなくなっていると言いたいのか。だとしたら、そんな事実が本当にあるのか根拠を示して欲しい。政治こそ「選挙」という単位で区切られてしまっている今日だが、少なくとも真っ当な企業なら、当然のように長期ビジョンを持っている。一歩譲って「“一年”という単位でしか人生を区切れなくなっている」という状況下にあるのだとしても、それが桜のせいだなんて考えるのは唐沢一人だろう。
 唐沢はなんで、こんな文章を書いたのだろう。言いたいことをまともな文章に直すと以下のようなことなのではと思えるのだが。

 ガセとパクリがばれて、仕事は激減。取り巻きの中には掌返すように去っていく奴もいる。ひょっとしたら、このままジリ貧になり、この仕事が続けられなくなって野垂れ死ぬんじゃなかろうか。桜を見るとそんな考えが脳裏に浮かび、思い千々に乱れて、涙が出そうになった。桜なんか大嫌いだ。

 曲がりなりにも文筆業を標榜するなら、このくらいの文章は書いてくれよな。論旨が明快で分かり易いでしょう?

 結論。
 ガセとパクリがなくても、こんな酷い文章しか書けない。その理由は破滅するのではという強迫観念(脅迫じゃないよ)や、なにかにかこつけた自己弁護、そうした文章を書いているからだろうね。イッセーの前説の例もあるように唐沢は打たれ弱い。

 文章でサバイバルする難しさを今一番実感しているのは唐沢本人だろうな。


           雷さんと私(2009/04/10)



          雷ってなんだか知っていますか

 学生時代、雷の研究をしていた。本来その研究室は、誘電体や絶縁、遮断機(踏切じゃないよ)なんかを研究する所で、実際、そうした研究には重電メーカーなんかから、何百万円といった研究費が出ていた。わたしの研究のテーマはちょっと違っていて、雷のあのゴロゴロいう音をコントロールして、シンフォニーを演奏させるというものだった(よくもまあ、卒業研究としてOKが出たものだ)。雷のあのゴロゴロ音の正体は、膨大な熱エネルギーが瞬間的に生じ、それが空気を急激に膨張させることで発生する衝撃波なのである。だから、コントロールのしようなどなさそうだが、ブレークダウン以前の部分破壊、つまりコロナ放電の段階なら可能で、実際にエレクトロボイス社等で商品化もされていた。しかし、わたしが目をつけたのは、この研究室で観察された新しい放電現象だった。高電圧回路に巨大な抵抗を繋ぐと、間隙に形状はアーク放電だが低電流という放電が発生する。これをコントロールしてみようと思ったのだ。
 紆余曲折の末、トランスを介して送った信号により、チロチロとヘビの舌のように伸びる放電に合わせて『時の過ぎ行くままに』(当時流行っていたのね)の沢田研二の歌声が聞こえてきたときは思わず涙が出たものだ。何百万ボルトという大電圧から生じた放電だから、実用性なんか全然ないのだけれど。
 当時、雷に関しては、積極的な研究は(わたしが知る限り)余り行われていなくて、前述した遮断機等の研究以外には、送電線のコロナ放電を抑制するとか、落雷を防ぐとか、どちらかといえば被害を減らすようなものが大勢を占めていた。
 今、この文章を書くにあたってWikipediaの「雷」を見直したのだが、わたしが三十数年前に習ったこと以外にほとんど新たな情報は見つけられなかった。
 で、神保町で偶然本書を見つけたのだが。

 著者宅間正夫は、東京大学工学部電気工学科を卒業し、東京電力に奉職、発電所長、役員などを歴任し、日本原子力学会会長も務めたという輝かしい経歴の持ち主である。タイガースフアンを自認し、「電気屋でかつトラキチ」なら、雷様がなんで虎の革のフンドシを締めているのかという謎を解かねばなるまいと雷の研究を始めたという。
 碩学が本気で挑んだのだから、面白くないはずがない。民俗学、宗教学、雷除けまじないから、日本各所の雷、絵画、文学、狂言、落語、小咄に至るまで、その博学ぶりを披露する。と言っても、学者が書いたガチガチの文章ではなく、軽妙洒脱。表紙のイラストから本文のカットまで自分で描いているという多才な人なのである。
 積乱雲(入道雲、鉄床雲)が真夏の空にもくもくと湧き起こる様は、なんとも力強く胸の高まりを覚えるものだ。著者によれば、高さ1万メートル(対流圏内)にも及ぶ積乱雲から、地上に向かって放電(落雷)すると、それをはるかに超えた成層圏(高度5万メートル)で、上方に向かって「ブルージェット」と呼ばれる青色の発光が観察されるらしい。さらにその上空9万メートル(中間圏)ほどのところで円柱状のスプライトと呼ばれる赤い発光が見られる。さらにさらに、10万~11万メートルの上部中間圏から下部熱圏にエルプスという赤いリング状の発光が瞬間的に発生する。エルプスは水平方向の直径が100~300Kmという巨大なものだ。
 凄いなあ。雷は積乱雲内で氷の細粒がぶつかりあって生じる静電気によって起こると思われてきたけれど、こんな不思議な現象を聞くと、もっとずっと複雑なメカニズムがありそうだという気がしてくる。
 その道の専門家が書いたものには説得力があるし、安心してその知的世界の海に漂うことができる。
 それほど入手しやすい本ではなさそうだが、ご一読をお薦めします。

 

雷 『雷さんと私』 宅間正夫 三月書房 2006


現在地:トップページ机上の彷徨