ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

          六とん4 一枚のとんかつ(2010/08/11)



             あまりに蘇部的な


            六とん4

 故ナンシー関は、物事の本質を即座に看破すること、いしいひさいち、西原理恵子と並ぶ天才だった。その慧眼に恐れ入ることしばしばだったが、中でも
 マルシア有田気恵が何故面白くなくなったのかの分析は見事だった。
 マルシアはブラジルの日系三世、有賀気恵は「あっぱれさんま大先生」のキーちゃんである。この二人に共通したのは、その常軌を逸した喋り方で、マルシアは時代錯誤のような滅茶苦茶な敬語の使い方、キーちゃんは頭の天辺から出す超高音の金切り声が大受した。ところが、半月も経たないうちににわかに面白くなくなった。TVのバラエティ番組だから、笑い屋の声は相変わらず入っているものの、空々しく、そして、それはおれ一人の想いではなかったようで、しばらくして消えてしまった。
 ナンシー関はこの現象を(正確な引用ではありません)、「自分のナニが受けているかを分析し、故意にその部分を演じるようになったから」と説明してみせた。天然が受けていたのを演じるようになったため、つまらくなったと見抜いたのである。まさに的を射た指摘で、素晴らしい。
 前置きが長くなった。twitterで早まった感想を書いてしまったのは、実は、ナンシー関と同じことを考えてしまったからである。本書の冒頭に収められた二作、「一枚のとんかつ」「大江戸線5分30秒の壁」は、お馴染み小野由一が活躍する保険調査ものだが、一読、蘇部健一は、自分のなにが受けているのかに気付き、敢えてその線を狙って書いたのではないかという印象を受けたのだ。作家がなにを目論もうが、本来なら勝手だろうが、蘇部健一の魅力は天然と思わせながら、実はしたたかな計算のもとに書かれているのではと錯覚させるところにある。したがって、計算が見えてしまっては、その魅力の大方は失われることになるのだ。
 だが、読み進めるうちに、それはおれの勘違いであることが分かった。この脱力加減は尋常ではない。もはや、ミステリーなどという枠はどこかにすっ飛んでしまっている。秘められた恋を台無しにする、身も蓋もない「聖職」「修学旅行の悪夢」、どこまでも残酷な運命を強いる「追われる男」、あまりにも冷酷な「恋愛小説はお好き?」、そして、やっぱり出たな、タイムスリップ物の「琥珀の中のコートダジュール」。もはや、作者の独擅場で、追随者を生むことさえ許さない凄まじい世界。
 しかし、講談社のサイトは思い切り勘違いしてるよなあ。あのさあ、
「ミステリ界を騒然とさせた伝説の迷作「六とん」シリーズの最新作です。必ず笑えます!」じゃねえだろうっての担当者、そんな甘いもんじゃないぞ。猛省を促す。
『六とん4 一枚のとんかつ』 蘇部健一 講談社ノベルス 2010


             現代語裏辞典(2010/07/31)



               黄金の時間

           現代語

  筒井康隆の新刊が出たら、仕掛かり中のことは、仕事であろうが、遊びであろうが、ナニであろうが、総て放棄して、新刊抱えてビールを呑みいく。これこそ、人生最大の楽しみなのに、これを享受する機会は滅多にない。
 学生時代、筒井ファンの男と二人で、購ったばかりの新刊書を抱え、ライオン(ビアホール)に入った。お互いに黙々と読書しつつ、ビールを呑み、思わず「ふぉっふぉっふぉっふぉっ」と笑えば、「え? 何処何処」と訊き返し、件の箇所を確認しながら読み直し「ふぉーっふぉっふぉっふぉっ!」と爆笑し、笑いが止まらなくなり、死に掛けたことは何度あるか分からない(よく叩き出されなかったものである)。
 社会人となってからも、また輪をかけたファンがいて、昔、打ち合わせコーナーで演出家とコンテの打ち合わせをしていたら、パーティションの向こうから、じわじわと筒井康隆新刊書がセリあがってきて、さらにもう一方の手が、人差し指で「コレコレ」と指し示す。これは「ははは、お前仕事なんかしやがって、おれはこれから、この本を読みながら、ビールを呑むのだ。うらやましいだろう」というメッセージなのだ。おざなりに仕事を終了して追随したことは言うまでもない。

 というわけで、仕事は放棄し、ランチョンで一杯やりながら読みました。内容は言うまでもないけれど、気の利いた捻りのものが多くなったような気がします。おれも年齢的には、こうしたものの方が面白いし、時々出現する、ナンセンスな出鱈目も効果的に笑えるのですね。
 これで、知音というべき友が一緒なら言うことはないのだが、学生時代の友は難病で早世し、会社の友は医療ミスで2年前から昏睡状態にある。
 だから、この黄金の時間を享受できる幸運を感謝しつつ、一ページ一ページ大切に読んだのでありました。

 『現代語裏辞典』 筒井康隆 文藝春秋 2010


             スリープ(2010/07/09)



           ピートがいない『夏への扉』

          スリープ

 うーむ。乾くるみは上手いなあ。
 こんな設定で、こんなストーリー思いついたって、おれなら絶対に書かないだろう。
 まあ、読者は気楽に読めばいいのだから、それでも巻を措く能わずで、どんどん読み進めてしまうのだが、この全編に漂う「不幸フラグ」はどうにかならないのか。絶対に悲惨な結末だよ、そうだよ、たまらない気分になるよと思っても、読み続けざるを得ないのはその筆力のなせる技、そう思っていたら。
 当初抱いた想い通り、乾くるみを以てしても、こうした世界を描くのは、やはりしんどいのかしらなんてことも、薄々感じ始めたりして。
 冒頭で『夏への扉』に言及されるように、『夏への扉』のあの仕掛けが登場する。ロバート・ハインラインは痛快なSFを書く作家というイメージを抱きかねないが、実は悲惨な作品も少なくない。『月は無慈悲な夜の女王』の最後だって無慈悲だし、『自由未来』の喪失感は只事ではない(唯一の救いが、ドクター・リヴィングストンってのも象徴的だ)。
 これは護民官ペテロニウスが登場しない『夏への扉』ではないかという予想は半分当たった。悲惨だが救いのない物語ではなかった。それは、よかったのだが、「しんどいのかしら」なんて、あなた。普通、こんなところに仕掛けるか。余程、作劇と文体に自信がなければ、出来る技ではない。
 ラストで驚きますぜ、ホント。

ドクター・リヴィングストン護民官ペテロニウスも猫の名前。


『スリープ』 乾くるみ 角川春樹事務所 2010


             死闘館(2010/07/06)



               一筋縄ではいかないよ

             死闘館

  『誰もわたしを倒せない』という傑作プロレス連作短編集を上梓した、伯方雪日初の長編ミステリ。一筋縄ではいかないことは充分に予想される。早速、amazonで購入して読んだのであるが。
神話の世界、第二次大戦直後のオーストラリアの捕虜収容所、そして、現代の日本 → ニュージーランドと時空は目まぐるしく変る。
 現代篇の狂言回し城島は警視庁の刑事。マオリ族の総合格闘家の、日本での突然死の捜査に関わったとき、その格闘家の弟ガトロ・スチュードと付き合うようになった。城島は人生に行き詰まりを感じ、失意を慰めるために真夏のニュージーランドに、そのガトロ・スチュードを訪ねる。
 ガトロ・スチュードの祖父、テ・ケレオパは盲目の武道家、その邸宅、古き日本建築「死闘館」は、ニュージーランドの山奥に建つ。通信が途絶え、通行手段も断たれ、ここで“お約束どおり”の連続殺人事件が起こるのだが、「閉ざされた空間」「不気味な館」が用意されているとはいえ、全然“お約束どおり”にならないのは、伯方ミステリのお約束どおり。
 必殺技という言葉を、おれたち日本人は、子供時代から何回耳にしたことだろう。必殺拳とか一撃必殺とか。そして、ふだん武道のことなんか興味のない人間ですら「究極の武術は素手で人を殺せるものだ」なんて口にしたりする。
「人を殺す=命を奪う」という意味、そして、連続殺人の輪舞。
 やはり一筋縄ではいかないミステリだった。
 ニュージーランドである意味、城島が格闘技マニアだが本人は全く出来ないという設定の意味、そうなんだよなあ、これは大変したたかで形而上学的なミステリであります。
 しかし、だから、理屈っぽくて面白くないかと言ったら、正反対。城島の目を通して語られる格闘シーンの素晴らしさは眼を見張るばかりだし。神話と収容所のエピソードが現代に収斂していくラストは感動的である。

 個人的に、ちょいと引っ掛ったのは、城島があんまり頼りなさげなんで、ニュージーランド到着後すぐに巻き込まれた事件のとき、当然ながら、警官である城島は、アレを拾っておいたのではと思い込んでしまったことだ。
 すみません。ちょいネタバレでした。

『死闘館』 伯方雪日 創元ミステリフロンティア 2010


          写楽 閉じた国の幻(2010/06/25)



              驚愕の写楽象

           写楽

 さて、これまで、何度も書いてきたことだが、おれの生涯のテーマは「切り裂きジャック」「東洲斎写楽」の正体を突き止めることである。「切り裂きジャック」に関しては、おれなりのバカミスがいつでもかける準備があるのだが、諸般の事情があり発表は難しい。そのことに関しては、いずれ書くこともあるだろう。で、もう一つのテーマの「写楽」に関しては、これまた20年以上も考察を続けているのだが、満足のいく形に出来ずにいる。

       本棚

 上は資料の一部。

 さて、今回、満を持してという感じで、御大・島田荘司の手になる『写楽 閉じた国の幻』が上梓されたわけなのだが。
 期待と不安(もうこれ以上のものは誰にも書けない)、二つながら我にありという心境で読み始めた。舞台は現代の日本、語り手の「わたし」が奇妙な日本画を手にしたところから、お話はスタートする。まさに理想的な始まり方だなとわくわくしながら読んでいたら――
 わーっと声を出したくなってしまった。まさか、こんな悲惨な展開になるとは思わなかったからだ。これでは、主人公、とても「写楽」どころではないだろうと、ちょっとドギマギしながら読み進めた。今後、おれだけではなく、色んな人が指摘すると思うが、こんな悲惨な展開が果たして必要だったのだろうか。ストーリーとしては、敵対する相手に一矢を報いるためにも、ユニークな写楽象を築かねばならぬという必然性を生んでいるのだが、「写楽の正体を探りたい」という想い以上のモチベーションが必要だったのだろうか。
 いかにも、島田荘司らしいキャラクター片桐教授には変な(大変な)魅力があるし、何度もぶっ倒れて嘔吐している頼りない主人公を支えてなお有り余るものがあるが、途中から冒頭の悲惨な事件なんか、皆忘れてしまった状態になってしまい、それはそれで、なんだかなあという気分にさせられる。
 肝心の写楽だが、冒頭、写楽別人説が展開され、おお、まさに彼が写楽なら大納得と思わせながら、実は死亡年が合わない(写楽登場の十数年前に死亡している)とあっさり切り捨て、いや、実はそのときには死んでいなかった可能性が、と推理を進めていくのは、この手の別人説ではお馴染みのやり方だ。
 今回、終始主張されることは唯一つ。誰が写楽だったにせよ、本人もしくは周囲の関係者が、なんでそのことを一言もかたらないのか、という点に絞って推理は進められていく。総ての事情を知っている蔦屋は何故沈黙を続けたのか。
 それは、口にしたら命に係わるタブーだから
 そう判断して、では誰が写楽だったら許されない人なのか…。
 実は、上で示した資料をひっくり返すと、それに当たるような人物が二人見つかるのだ。一人は某藩の殿様で、粋人と言われた人物。幕府の方針に逆らって役者絵なんて描いたら、という点は納得だが、ならばそもそもそんな危険を冒したのかという点が引っかかる。そして、もう一人は――
 それは、中島節子が『芸術公論』1980年6~8月号で指摘している人物なのだ。

 実は、島田荘司の結論も同様だった。だったのだが、さらに、島田は「写楽」という号から意外な人物を導き出し、驚愕の正体を提示してくれた。
 でもね。
 やられた! という気分にはならなかったなあ。もっとエレガントな真実を期待していた身としては。
『写楽 閉じた国の幻』 島田荘司 新潮社 2010


            パクられた?(2010/06/08)




 昨年、某週刊誌の連載企画のプレゼンをした。ちょっと自信のあった企画だったのだが、没。まあ、それは仕方ないのだが、昨日、書店で、全く同内容の書籍を見つけた。今年の4月25日が初版なのだが、偶然の一致なんだろう。そう思いながら、本を手にとっておどろいた。なんと腰巻、裏表紙に書かれたキャッチが、プレゼンしたときに提出したものと、全く同じなのだ。まさか、パクられた?

             洒落にならんぞ!

 徹底的に追求する所存。


          ベルリン・コンスピラシー(2010/06/02)



            久方ぶりのサスペンス

           ベルリン

「コンスピラシー」は陰謀のことだが、原題は“Charged with Murder”。「殺人罪に問われて」とでも訳しましょうか。ちょっと地味だけど、日本題名はよりはずっとまし。とても分り難いもんなあ。「ベルリンの陰謀」じゃ駄目なのですかね。
 と、苦言から入ってしまいましたが、なんせ、あのマイケル・バー=ゾーハーの新作、期待はいや増すばかり。
 内容は、ちょっとamazonを引用させてもらいましょう。

 ホテルで目覚めたアメリカの実業家ルドルフ・ブレイヴァマンは、不可解な思いにとらわれた。昨日はロンドンのホテルで寝たはずだが、ベルリンにいるのだ。間もなく彼は、62年前に仲間とともに五人の元SS将校を殺した罪で逮捕され、彼の息子ギデオンが一連の奇怪な事件の調査を開始する。父親の親友などの協力を得て、やがて暴き出す驚くべき国際的陰謀とは? 巨匠が実力を遺憾なく発揮した待望の新作エスピオナージュ。

 ゾーハーは執筆時70歳、巨匠とは言え、往年の輝きや如何にと思っていたのですが、驚くべし、過去の名作に勝るとも劣らない傑作でありました。
 なにより、そのテンポの良さ。徒にストーリーを引かず、どんどん進めていく手法には若々しいエネルギーを感じてしまいます。登場人物が矢鱈に多いので、それぞれのエピソードが、いささか淡白な印象になっているけれど、それが逆に物語りに現実味を与えているところなど、ゾーハーの新境地と言ってもいいのではないかしら。
 東西対抗という構造が存在したときは、右と左、+と-、どんでん返しが続いたところで、どちら側かで収束するのがお約束でした。しかし、まさに現在の政治構造は複雑で、一筋縄ではいかない。
 そして、こんなラストは今までなら考えられなかったもの。ショッキングではあるけれど、唯一無二であることには納得いたしました。

『ベルリン・コンスピラシー』 マイケル・バー=ゾーハー ハヤカワ文庫 2010


            日本語の作法(2010/05/25)



             「無断引用」について

            無断引用

 外山滋比古の『日本語の作法』の中に、気になる文章があったので、ちょっと引用してみよう。
「借用・引用・盗用」P.164

 ひとの書いた文章、著書から勝手に引用することを何でもないと思っている人がいまなお少なくない。ごく私的な引用、メモなら別だが、活字にして公表すれば盗用になるのである。最近も、新聞の投書の文章を引き写したような小説を書いた作家が盗用を認めさせられたという報道があった。無断で引用すれば盗用になることを知らなかったのか。

 当然ながら、外山氏は分って書いているのだろうが、甚だ誤解を招きかねない書き方である。引用は無断で行われてなんら差し支えない。この場合「無断」とは「著作者に無断」という意味である。たとえば、上記の外山氏の文章、外山氏には無断で引用している。
 問題になるのは、読者に対し、こうした文章を引用した事実を断らない(つまり「無断」)場合である。上記の文章をわたしが書いたオリジナルの文章と勘違いさせるような行為である。
 唐沢俊一という無能なライターが自著『新・UFO入門』に、「漫棚通信ブログ版」の文章をコピーし改竄して掲載した。その件をブログ主催者から指摘されたとき、唐沢は「無断引用したことを謝罪します」という卑劣な言い訳をして逃げ切ろうとした。引用なら無断でもかまわないのに、主催者に無断だったこと(罪にはならないこと)を勝手に謝って収束させようとしたのだ。その後自著に、主催者が悪質なクレーマーだったと嘘八百を書いた。そんな馬鹿が、連載を切られ、TV、ラジオのレギュラーを降ろされ、イベントは中止に追い込まれ、サイトも半閉鎖という状況なのに、相変わらず盗作を続けている。

 外山氏には申し訳ないが、勘違いされそうな表現だったので、一言書かせてもらった。

★唐沢俊一 検証blog (一部)
 http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/
 http://d.hatena.ne.jp/sfx76077/
 http://tondemonai2.blog114.fc2.com/

『日本語の作法』外山滋比古 新潮文庫 2010


            綺想宮殺人事件(2010/05/19)



        ゲーデル・クリスティ・トリフォー


          「綺想宮」

 『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』と並ぶ4つ目の椅子を目指したミステリは数あれど、いずれも帯に短し襷に長しというか、まあそれに相応しい作品はまだ誕生していない。おれなど、目指すばかりでエントリすることすら適わない。

 最初からこの三作の名を挙げ、『黒死館』へのオマージュを謳った本作が一筋縄ではいかないものであることは、読む前から充分に意識していた。
 しかし、である。何故に探偵が森江春策なのか。さらに、菊園検事が登場するに至っては、本当に一体何故なのかと思いつつも、これにも重要な意味があるに違いないと、納得しながら読み進めた。
 奇怪な屋敷に集う奇矯な人物たち、しかも、容貌と行動、なんとか説明された段階で、次々と怪死していくのはお約束通り。さらに、それらは見立て殺人であり、なんとその謎に挑む、森江も菊園も、今回は何故かファイロ・ヴァンスもかくやというほどにぺダンチックなのだ。
 期待通り、この事件の真相は意外や意外というもだったが、実は、もう一度、見事にひっくり返され、明らかにされる事件の全貌は――。

 やられた、というのとも違う。なんだろう。凄いことを考えたものだと思う。矮小な現実に見切りをつけ、壮大な虚構世界に逃げ込もうと試みた人間にとって、「『黒死館』は偉大なる虚構の楽園だった。そうした逃避を謎そのものに据えた『虚無』は、東京という現実の街を巨大な闇の翼に覆れる空間に変貌させて見せた。そして、本作は――

 これは『黒死館』へのオマージュなのか。
 勝手な解釈だが、わたしには、もっと別の館へのオマージュに読めたのだが。つまらない、薄っぺらな現実が築く館は、見せ掛けだけの謎めいた館などより、遥かにミステリアスだという。
 しかし、「googleとwikipediaによるぺダントリー」という言葉は、正直堪えたなあ。

 瀬戸川孟資がクリスティの『アクロイド殺し』はフェアかアンフェアという次元ではなく、ミステリとして破綻してると看破したこと。客観的というものを「ゲーデル」が否定したこと。それをトリフォーが『アメリカの夜』で映像化したこと。そして、あらゆるミステリーはメタミスであること。
 それらを包括した超問題作というのはわたしの個人的意見。

 『綺想宮殺人事件』 芦辺拓 東京創元社 2010


          東京☆せんべろ食堂(2010/04/30)



              目から鱗の飯屋酒

             せんべろ

 いや、食堂というのは結構気の利いた呑屋なんだよね。呑屋ガイドなんかにも、何軒か紹介されてたりする。でも、その呑屋ガイドも、昨今はなんか有名店を並べただけじゃんなんてのが多くてね。なんて、ぐだぐだ言いながら、本書を手に取ったと思いねい。
 参りましたね。こりゃ飯屋酒の集大成、ここまで徹底したものはなかった。無論、『つるかめ食堂』『山田屋』『お志ど里』『遠太』なんて超有名店は、なにを今更って感なきにしも非ずだけど、まあ、燈台下暗しじゃないが、神田駅前や新橋に、朝からやっている呑屋がこんなにあるとは知らなんだ。
 そんな中に、以前から気になっている店が取り上げられていた。池袋へいわ通りの『居酒屋食堂東京一』という店だ。拳道会の道場に通いだしてはや十年、すっかり土地鑑の出来た池袋で、なにかこう入りにくい一店だったのだ。店構えはかくの如し。
 
 東京一

 ね。なんとも実直な飯屋という感じでしょう。時分時、煮魚かなんかで一杯やってたりすると、定食を食いにきた客に、露骨に邪魔者扱いされそうな佇まい。しかし、本書の紹介によれば、「本マグロの中オチ」や「豚の角煮」なんかで呑んでいる客もいるとか。というわけで、13:30ころ、恐る恐る入店したのだが。
 おっと。なんだいこの店は、小上がり、カウンター、テーブル席、壁にびっしり貼られた品書きは、紛うかたなき居酒屋のもの。久保田千寿、浦霞、八海山といった銘酒から、焼酎ビールサワー、なんと一合140円の安酒なるもの(日本酒)も。そうだ、本書では焼酎の水割り140円と紹介されていたが、日本酒なんですね。
 食事の客が3人いたが、ビールなど呑んでいて一安心。カウンターに座り、まず酒を注文。実はこれが安酒だったのだが、なに普通の醸造酒。ぐいと飲み干し八海山をに切り替える(本日一合380円也)。本マグロ中オチ、生ラッキョウ、豚角煮と定番料理を注文し、酒もお代わりして、2000円でお釣が来たよ。年中無休で、夜は24時までといいながら、客がいればずっと営業しているのだと。なるほど、本書の記述に嘘はなかった。
 さて、では本日はどこぞに参ろうか。
 飯屋がおれを呼んでいる。

『東京☆せんべろ食堂』 さくらいよしえ メディア・ファクトリー 2010


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