このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
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単純すぎるストーリの複雑すぎる設定

う~ん。
これ、ファイナル・ファンタジーってタイトルでなければ、そこそこの評価が得られるゲームだとは思えるんだけど。
もう、amazonなんかで散々言い尽くされているんで、今更って気がしないではないんだが、おれなりの感想を書いてみようか。
とにかく、設定が複雑すぎて、しかも面白くない。これが総て。頭が痛くなるような設定(入り組んでいるのではなく、破綻し捲くっている)なのに、ストーリーは異様に単純と言うジレンマ。結局、これらが最後まで払拭出来なかった。
FF10(おれ的には最高傑作)も複雑な設定を基盤にして進行するゲームだったし、冒頭サッズ(黒人のおっさんキャラ)がライトニング(女性兵士=主人公キャラ)の戦闘に巻き込まれる辺りは、FF10で主人公のティーダが謎の剣士アーロンの戦闘に無理矢理引きずり込まれるという設定もよく似ている。ところが、両者の決定的な違い(それはFF13の大きな欠点でもあるのだが)は、ティーダがゲームをやっている人間と同レベルの情報しか持っていなくて、ゲームの進行に従って徐々に謎が解けていくのに対し、FF13では登場人物は謎を抱えているものの、その世界の設定は十分に理解しているというところにある。なんせ「コクーンのファルシがパルシのルシをパージする」なんて言葉が、登場人物には100%理解できているのに(暗号ではない)、ゲームをやっている俺にはちんぷんかんぷんのまま進行していくのだ。
なんとか理解できたのは後半になってから。コクーンは理想郷。パルシは魔物が支配する「下界」。ファルシは人間より上位の存在で、コクーンを繁栄させている。一方、パルシにもファルシが存在し、そいつらが、コクーンの人間をルシ(下界の先兵)に変えてしまう。コクーンはルシを捕らえてパルシに追放(=パージ)しようとする。ルシにされてしまった5人は、裏に隠された野望を感じ、コクーンを守るために闘う決意をする。
ところが、見かけのストーリーは単に、魔物と兵士を相手に、5人が戦うだけ。それも全13章の物語で、10章までは一本道を走っては敵に遭い走っては敵に遭い。さらに、ルシに与えられた使命はコクーンを滅ぼすことで、それが達成できない場合はシ骸と呼ばれる異形のゾンビに変えられてしまうのだ。さらに、見事使命を達成した場合は、なんとクリスタルに変貌し、そのまま永遠の存在になる。どっちも嫌だが、どうすりゃいいの。それでも無意味な戦いは続く。4、5、6章なんて、本当にただ闘っているだけで、ストーリーには関係がないのね。
とにかく設定が言葉で語られるだけだから、傍から見たら延々と戦いが続いているだけ。裏道でおっさんが喧嘩してるのを、「銀河系の存亡をかけた戦闘」としているようなものだ。それなりの舞台、それなりのキャラにしてくれなくては、納得いかないよね。
ストーリーはそのまま進行し、実はファルシも神ではなく、神に見捨てられた存在で、コクーンを滅ぼせば神が救いに現れるだろうという、よく分からん計画に翻弄されていたと分かるのが、最後になって。そんな、挑発に乗るか! といいながらコクーンの守護神オーファンを倒しちまう。当然、コクーンは崩壊するが奇跡が起こって――エンドって、おいおい。
悲壮で美しい、あのエンディングの画像に収束するように、遡ってストーリーを考えたんじゃろか。サラとオッジの能天気なツーショットが、ハッピーエンドのシンボルなら、バニラとファングのツーショットは? あれでいいの?
クリア後、レベルが上がって、いま種々のミッションに挑戦しているんだが、けなげに戦っているバニラが不憫で不憫で。
FF12が旧システムで思い切り自由度を上げたのに比べて、本作は新システムながら進化は逆戻り。次作(いつになるのかしら)に期待かな。
『ファイナル・ファンタジーⅩⅢ』 スクエア・エニックス 2009
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希覯本?

すみません、未読です。『天地明察』の影響ではないが、もっと自分の国の足許を見直さねばなんて殊勝なことを考えて。なんてね。某古書店で均一棚に並んでいたので気楽に買っただけです。読む前に、これはどのような本なのか、ネットで検索したら、
『大日本古文書 「家わけ文書10」内の「東寺文書」第14冊』
東京大学史料編纂所 2006
リンク先のamazonを良く見ていただきたい。
¥ 1,047,306!
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まことに不可思議な勝負のお話

うーん。なんと言ったらいいのかしら。むろんこの物語はとても面白いし、知的な好奇心を大いにくすぐってもくれる。しかし、これは一体なんの物語なのだろう。最初に書店の店頭で見つけたときから、読了した今に至るまで、そのとらえどころのない印象は変わらないのだ。
『天地明察』という奇妙だけれど魅力的なタイトルに惹かれて、ふと手を伸ばしかけて、そのままフリーズしちまったのは、沖方丁という著者名に気付いたからだった。あの傑作SF『マルドゥック・スクランブル』の著者が、一体なにを書いたのかと、ページをパラパラやって驚いた。なんと時代小説。とあれば、真っ先に思い浮かんだのは、あの山田風太郎を数層倍SFチックにしたものだろう、と腰巻の惹句も読まず(おれは本には書店のカバーは着けないし、腰巻、はがき、チラシの類はすぐに捨ててしまう)勝手に納得して、早速地下鉄の中で読み始めた。
なんとまあ、算術と暦のお話でありました。主人公は渋川春海(本名、安井算哲)という将軍家お抱えの碁打である。恥ずかしながら、実在の人物であるこのお方の名前全然知らなかった。いや、ここに登場する、いずれも型破りな神道家、算術家、暦研究家、浅学菲才のわたくしには未知の人ばかり。辛うじて知っていたのは、もう一人の主人公ともいうべき関孝和と名前だけ出てくる山鹿素行くらい。それも関孝和は和算の学者で、せいぜい算盤で四則演算をしていたんだろう程度の認識、山鹿素行に至っては、本書で初めて赤穂藩の軍学者だったことを知って、あの忠臣蔵の山鹿流の陣太鼓の山鹿はそういうことだったのかと納得したほどの無知のです(山鹿流の陣太鼓は劇作上のフィクションだが)。
さて、史実に基いた本書には、派手な剣術の果し合いなど一切なく、ここで繰り広げられるのは、算術、囲碁、暦の果し合いなのだ。それが、文字通り手に汗握るほどの緊張感を生んでいるのだが、一つ残念なのは、設問がありながら解答が示されていないこと(厳密に言うと解法)。これは、剣術の試合なら、刀を抜いて対峙し、次の瞬間にはどちらかが倒れているといった描写の繰り返しのようなものだ。いや、書かれていたっておれみたいな門外漢には分からないのだろうけれど。
フェルマーの定理、四色問題といった数学史上の難問が解かれるさまが、一般向けの書籍として出版され、ファンも多いときに、ちょっとこの扱いはそっけないんじゃないかしら。冒頭の三角形に内接する円の問題なんか、ちょっとエレガントな解法がありそうなのに。それから、主人公の周囲の人間が、同僚、上司、ライバルに至るまで、皆主人公に好意的なのもちょっと拍子抜け。酒井雅楽頭や水戸光圀(マッチョなグルメに描かれている)といった一癖も二癖もある連中までも、なぜか春海には味方してくれる。
いや、「天地明察」、天の運行を詳らかにして正確な暦を作成するという、大事を前にしたら、人間関係なんて些細なものなのかも知れないけど。そのせいか、魅力的な人物があっさり死んでしまったりするのはちょっとショックだった。
大仏建立だって江戸城の築城だって、数学がなければ成り立たない、況や太陽と地球、月の関係の解明に於いておや。先達の優れた業績に目を開かせてもらった。これが本書の(おれにとっては)最大の功績だろう。
結局、天は長く地は久しく、人はつかの間の存在。それを描いたお話なんだろうか。うむ。
『天地明察』 沖方丁 角川書店 2009
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ブログにも書いたんですが。
1、kensyouhan著『唐沢俊一検証VOL.1 盗用篇』が完成、夏コミで直接贈呈される。また、本書の書評が『映画秘宝』に掲載される。
当日、kensyouhanブースを訪れた主な方々(敬称略)
大野典宏、漫棚通信、知泉、伊藤剛、昼間たかし、永山薫、古賀、倉知淳、竹熊健太郎。藤岡真
2、ジュンク堂で開催予定だったトークイベントをドタキャン。そのまま緊急入院するも、入院の段取り、治療法などに疑問多々あり、仮病説もでる。また、退院した日から大酒を飲んだと日記に書き、似非無頼派を気取ったところも。
3、身内からの造反、批判が相次ぐ。
「トンデモ本大賞」のイベントで、著作を「トンデモ」と認定された大内明日香が造反(その後、和解?)、また山本弘「と学会」会長が、唐沢の度重なる盗用に切れて、会合への参加、「トンデモ」を冠した著作の出版休止等のペナルティを課すが、植木不等式(退会)、藤倉珊の反対により撤回した。さらに、唐沢とも付き合いの長い、編集者、額田久徳は唐沢の盗作問題を同業者に問う行動に出る。
4、初のビジネス書『博覧強記の仕事術』を上梓。博覧強記の意味を間違えた所からスタートしている、出版事故的ビジネス書。
5、青山学院大学卒業の疑問が再燃
学食に関して書かれたエッセイが事実とは違うことに、卒業生から多くの意見が寄せられる。また、青学入学当時に「親に勝手に大学を休学した」と日記に書いていることが判明、東北薬科大学のみならず、青学も中退したのではとの疑問が再燃した。
6、唐沢俊一検証がさらに充実。
新たに松沢呉一、宅八郎、岸田裁月が参入。mixiに検証コミュも立ち上がる。さらに、「カラシュンの食卓」「唐沢俊一P&G博覧会」といった新サイトも。
7、自分が本当にやりたいのは「芝居」であると告白。しかし、日記では「酔って舞台に上がった」「出番の少ない芝居なので切符を売る気がない」「すっぽり台詞を抜かした」等、思い上がった態度を自慢、ついには「あぁルナティックシアター」について「ユルユルのコメディばかりやっている劇団」とし、そんな劇団に関わっているのが恥ずかしいとまで発言した。座長橋沢進一との関係が危うくなったのか、橋沢の誕生日に見え見えのヨイショを日記に長文で書き、失笑を買う。
8、単行本ばかりでなく、雑誌連載中の記事にもP&G続出を検証される。
9、忌野清志郎、加藤和彦の訃報に接して、無茶苦茶な追悼文を書き、心ある人々の怒りを買う。
10、死体遺棄容疑で逮捕された、市橋達也に対しての異常とも思える愛情を吐露。ああやっぱりと世人を頷かせる。
次点、快楽亭ブラックのblogにより、唐沢が出演している寄席落語会が不入り不評であることが露見する。
付記:『唐沢俊一検証本VOL.2-ガセビア編-』、『トンデモない「昭和ニッポン怪人伝」の世界』が冬コミにて販売される。
その他にも、三越のイベントが客が集まらずに中止になったとか、唐沢なをきが『まんが極道』で再びパクリをネタにして、よしこ夫人が「パクリネタは好評なのでまだまだ描く」と宣言したり、枚挙に暇はありません。
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ツマンナイ

なんか知らんが滅茶苦茶に評判のいい小説。年末の恒例ベスト10にも選出されるのだろう。しかし、おれには全然面白くなかった。まあ、一人ぐらいツマンナイという人間がいてもいいじゃないか、というところで気楽にいく。
家族を描いたハードボイルドといった(ような)言葉で評しているものをいくつか見かけた。その通りなんだが、それだったら、ロス・マクドナルドという物凄い先達がいる。『ウイチャリー家の女』『さむけ』『縞模様の霊柩車』。比べては気の毒だが。いや、リュ―・アーチャーはあくまでも第三者という立場から、他人の家族に関わるだけじゃないか。この話は主人公が当事者なんだぞ。そんな反論もあるだろう。そう、そこはテネシー・ウィリアムスなんだよなあ。『熱いトタン屋根の上の猫』を実は連想した。特に父親との葛藤なんてね。でミステリの部分は、映画化されたクリスティの某作を髣髴とさせる(特に犯人像が)。
読み終わってみれば、登場人物は、皆“いい子”なんだよなあ。犯人にしても。それでいて決してハッピー・エンドというわけでもないのだが。
雛形を集めた中途半端な作品といった印象。翻訳の人称「僕」っても浅薄な感じがしていやだった。
ゴメン。感動した人。
『川は静かに流れ』 ジョン・ハート 東野さやか ハヤカワ文庫 2009
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さて今回は大胆なネタばらしの連続なので、『母なる証明』を未見の方、及び『幻の女』『ホッグ連続殺人事件』を未読の方は、絶対にお読みにならないで下さい。
「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」
ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』稲葉明雄 訳 早川書房
ミスディレクションを仕掛けるときに難しいのは、隠された真相より、いかにもそれらしく見える偽の真相の方だ。その偽の真相を完璧に造り上げた奇跡のような傑作が『幻の女』である。
ご存じない方はいないとおもうが、念のためにストーリーを紹介する。
スコット・ヘンダースンは夫婦喧嘩の末、夜の街に飛び出した。そこで奇妙な帽子を被った女と知り合う。ヘンダーソンはその女と酒を飲み、食事をし、劇場の最前列でショーを見た。名も知らぬまま女と別れたヘンダーソンは帰宅する。そこで彼を待ち受けていたのは、ニューヨーク市警の刑事だった。妻は殺されていて、ヘンダーソンは殺人容疑で逮捕される。自分のアリバイを証明してくれるのは、あの「幻の女」しかいない。逮捕された彼に代わり、親友のジャック・ロンバートは「幻の女」を捜すのだが。
ストーリーは極めてシンプル。この手の物語としたらガチガチの型にはまったものなのだが、実はここが大変重要なポイントなのだ。読者はスコット・ヘンダースンの罪は無実と分かっているし、目的は唯一「幻の女」を捜すことである。このお約束があれからこそ、あの物凄いどんでん返しが効いてくるのだ。読者は「幻の女」の行方に気を取られているから、不意打ちに全く気がつかない。
ま、いくら褒めても、おれの手柄じゃないけどさ。
もう一つ、ミステリの例『ホッグ連続殺人事件』W・デアンドリアを挙げる。発表された当時、この作品はかつての本格黄金時代を髣髴とさせる「外連味に溢れた」ミステリと紹介された。ニューヨーク州スパータで発生した連続殺人事件。HOGと名乗る犯人は、不可能とも思われる殺人を実行し、不敵にも犯行声明を送りつけてくる。おお、なんともドキドキするストーリーではありませんか、と期待に胸膨らませてページを繰ったおれは、直ぐに「あれ?」と首を捻った。それはHOGの犯罪に、全く「外連味」がなかったからだ。一見、事故に見えたり、自殺に見えたりする事件、それがHOGの手による巧妙な殺人だと言うのだが、ここであっさりトリックが見えてしまった。これはHOGならぬABCの遣り口ではないか。
なんでそう看破出来たか(看破しようと思って読んでいたわけではない)といえば、この事件が『幻の女』みたいに型にはまっていなかったからだった。だから、偽の真相(殺人)隠された真相(事故・自殺)の関係が機能せずに、ミスディレクションがあっけなく破綻してしまう。犯行声明を送ってくる殺人鬼が、なんで自分の犯罪を事故や自殺に見せかける必要があるのだろう、なんて余計なことを読者に考えさせてしまうのだ。
という訳で、このガチガチの型ということを念頭において、以下の文章を読んでいただきたい。
『母なる証明』は一部では大変な評判の映画で、おれも友人から是非是非と勧められていた。監督はボン・ジュノ、ただしおれは、『殺人の追憶』、『グエムル-漢江の怪物-』も見ていない。主演は韓国の母といわれる国民女優、キム・ヘジャとウォンビン。ウォンビンに関しても韓流のイケメン俳優という程度の知識しかない。いや、こうしたことも映画を見終わって知ったのね(ウォンビンの顔も知らなかった)。まっさらな状態でスクリーンの前に座ったと思いくだされ。
ああ、なるほどと思ったのは、三十分もたったころ。知的障害者であるトジュン(ウォンビン)が女子高校生殺人事件の容疑者として逮捕され、親一人子一人の母親(キム・ヘジャ)が息子の無実の罪を晴らすために奔走する。そういう映画なのね。
トジュンは犯行当日、酔ってその女子大生に声をかけた。しつこく後を追うと、女子高生は空き家に駆け込む。トジュンは立ち去ろうとしたが、背後から大きな石が投げつけられる。女子高生が家の中から投げたのだろう。立ちすくみ、怯えて立ち去るトジュン。
トジュンが知的障害者だから、訳もわからぬうちに強引に容疑者に仕立てられて収監される。というのはガチガチの型だ。これで、本来なら「お母さん、ボクはなにもしていないよ。でも、だれもボクの言うことを聞いてくれないんだ」と涙ながらに語るトジュンがいて、そして、例えば現場から立ち去る「幻の男」を見たなんてことになれば、その後の方針はスッキリしてくる。
でも、トジュンはあっさり(セパタクローキックで脅されたとはいえ)調書にサインしてしまうし、走り回る母親も一体何を目的にしているのかがさっぱり分からない。いや、観客に分からないのはいいのだ。登場人物がなにも分からぬまま走り回っていては、見ている方はイライラするばかり。
やがて、殺された女子高生が売春をしていたことが分かる。そして、持っていた携帯電話に「写っていてはならぬ人物」が写っていたことも。母親はさして苦労もせずに、女子高生の祖母からその携帯を手に入れる。
さあ、この先が凄い。母親から携帯の写真を見せられたトジュンは、ある一人の人物を指差した。これは意外なというか拍子抜けの人物で、以前ボロ傘を購ったことがあるホームレスの老人だった。老人の許を訪れた母親は衝撃の事実を告げられる。あの晩、その場を立ち去ろうとしたトジュンは直後女子高生から「馬鹿」と罵られ、かっとなって石を投げ返したのだ。その石が女子高生の頭を直撃して――温厚そうなトジュンが「馬鹿」という言葉にキレることは、その前に何度も描かれている。
母親は息子の殺人の目撃者である老人を殺し、その家に火をつける。そして、女子高校生の客の一人だった青年がシャツについた血液型の一致から逮捕され、真犯人とされる(女子高生は鼻血が出やすい体質――難病の前兆か――だった)。全くの冤罪だが、この青年も知的障害者のなのだ。
二人殺し、一人を無実の罪で裁かせる。しかし、この親子にとっては、万事めでたしめでたし。鍼灸師の母親は「忘却の壺」に鍼を打ち、狂喜乱舞して映画は終わる。
唖然茫然。
そうだったのか、おれはずっとこの映画をドンデン返しのミステリだと思って見ていたのだ。だから、ガチガチの型から外れて、『ホッグ連続殺人事件』みたいに失敗したと思った。しかし、全然そうじゃなかった。まさに『母なる証明』。自分の子供を守るためなら、他人なんてどうなってもいいという至極当たり前なのに、なかなか口に出しては言えないことを、ボン・ジュノはあっさり言ってのけたのである。
だけど。
母親に殺されたホームレスの老人は、なんで女子高生に写真を撮られていたのだろうか。客だったのか。いや、そうだとしても、母親に(当然、容疑者の母親であることは知らない)本当のことを話したと断言できるだろうか。老人が真犯人ならなおのこと。
オープニングとエンディングのダンスの物凄さ。
これは傑作だ。自分勝手な価値観のなんと爽快なことだろう。
ネットでは、ミステリとして評価する意見と、犯罪を容認する価値観を非難する意見が対立しているようだ。
しかし、これはミステリではない。映画は道徳の教科書ではない。
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奇妙な暗合

昨日、平山夢明の『ダイナー』を読み終えた。そして、おや、こいつはちょっと面白い現象だな、と思ったのだ。平山夢明も新作が待ち遠しい作家の一人なんだが、この新作には、あんまり好きな言葉ではないが、いい意味で裏切られたからだ。

なにに裏切られたかを書くと、そのままネタばらしになってしまうので、詳しくは書けないが、冒頭の設定から想像したのとは全然違う展開が意外で、これまでの平山作品とはちょっと違っている。そして、そのことを面白いと思ったのは、この現象が11月12日のエントリで触れたジェフリー・ディーヴァーの『ソウル・コレクター』の遣り口によく似ていたからだった。資質も目指すものも、全く違う二人の作家が、新作で今までとは違った世界を構築しようとした、そうした“考え方”を具現化したものが同時期に現れるのには、偶然では片付けられないなにかがあるのではないか。
さて、前置きが長くなったが、『球体の蛇』である。いや、道尾秀介が、今までとは全く違った世界に挑戦したというわけではない。この物語は、むしろ多くの読者には、道尾の本流である、『ラットマン』的な世界の延長と受け止められたのではないのか。それは、間違いではない(「最新」「最高」と煽るのは少し違うと思うけど)。だが、読み終えて、おれには、ああ、やっぱりこっちの道を選んだのかという想いがあった。『ラットマン』が本格ミステリの枠の中で、ゾクゾクするような謎とどんでん返しをみせてくれたのに対し、ここで語られる「謎」はミステリの枠に納まらず、もっとずっと残酷な現実を描いていたからだ。現実は方程式を解くように、答を与えてはくれない。いや、答なんか最初から存在しないのかも知れない。
そこで翻弄される人間。道尾秀介がこれから先追求していくのは、そうした世界なのではないのか。
私事だが、やっと書き始めた新作、もう一度自分の“枠”を徹底的に追求して、こうした世の動き(そんなことを感じているのはおれだけかも知れないが)に思い切り逆らっていこうと思っている。
『球体の蛇』 道尾秀介 角川書店 2009
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とびっきりのミステリ

おお。なんと言ったらいいのかしら。アームチェア・ディテクティヴではないし、日常の謎などという生温いものではない(思い切り世間を狭くするだろうが、おれは日常の謎というやつが大嫌いである)。うーん。なにしろ落語の噺の世界だから、勝手知ったる日常でもないし、そもそも謎らしきものも、あることはあるにせよ、「なんなんだろこれ?」と提示されるわけではない。なのに、「神田紅梅亭寄席物帳」シリーズ、この第三弾は大傑作なのだ。
日々是好日乎の10月12日のエントリで、著者の愛川晶さんが主宰された寄席に招待されたことを、自慢たらたら書いてしまった。『包丁』『厩火事』『うまや怪談』の三席をぼうっと聞いた挙句、「キャリーみたいな噺かも知れないと思い、ずっと警戒しながら聞いてました」なんて思い切り頭の悪い感想を述べてしまった。作者の愛川さんと演じた鈴々舎わか馬さんから、全く同じ「まさか、落語ではそんなことはしませんよ」というお答えをもらったのに、その意味も分からず、本当に馬鹿を曝しただけだった。あー恥ずかしい。
本書は、表題作と、『ねずみととらとねこ』『宮戸川四丁目』の二作を編んだ、連作中篇。最初に書きましたが、なんとも説明しがたいミステリーなのであります。前作『芝浜謎噺』の最終話『試酒試』が実は事件さえ起こらないミステリーではあったのですが、今回も事件らしき事件は起こらない。いや、事件が起こっていながら、それが顕在していないので、なんとなく歪んで見えてしまう状況を、落語を語ることで解決してみせるという、まさに奇跡的な名人芸。
『ねずみととらとねこ』は高座勝負というテーマを、その顕在していない事件を名探偵・馬春師匠が示唆し、主人公・福の助が演じ解決し、それを奥様が解説するという趣向。伏線が見事に効いているが、それよりなにより、ここで演じられる『ねずみ』の全く新しいサゲの見事さが、作品を上質のものにし、かつ作者の並々ならぬ造詣の深さを感じさせてくれるのです。
表題作『うまや怪談』ともなると、これはもう他の追随は許さない落語ミステリなのであります。なにしろ、久世光彦が、『一九三四年冬―乱歩』や『百閒先生 月を踏む』で見せた手法、つまり乱歩、百閒の作品を作内作として書き上げるという至難の業を、『うまや怪談』という新作を提示することでやってのけているのです。そして、10月の落語会で何故あの三席が演じられたかが、愚鈍な小生にもやっと理解できました。ここらへんは、ちょっと一般の読者とは違った感情の感想ですが。その噺が、微妙な縁談、学校の謎、そして、落語会での辛口評論家の厳しい目、総てを解決してしまうのですから、もう喝采しかありません。しかも、なんと福の助は、名探偵である師匠の手を借りずに解決してしまいます。これは新展開――と思わせておいて。
『宮戸川四丁目』では無視されてすねた馬春師匠に出禁を喰らい、福の助はご機嫌うかがいに出向きます。実はもう事件は起こっていて、これまた過去の因縁がうまく伏線になっている上に、突如響く三味線の音が、艶っぽいホラーになっているという趣向。しかも、最後の最後に、驚くべき展開となり、後は次回作のお楽しみ、お後がよろしいようでというのは、憎いばかりの構成です。
日常の事件すら起こらず、なのに本格ミステリであるという本作、本年の一押し。さらに落語好きならば至高の一冊でしょう。
『うまや怪談』 愛川晶 原書房 2009
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ディーヴァーのやり口

『ウォッチメイカー』が多重ドンデン返しのデススパイラルに嵌っちまったような話だったから、今回はどんな展開になるのか、ディーバーのお手並み拝見と読み出したんだが。まさに、一読巻置く能わざるで、一気に読んでしまった。やっぱり、ディーバーも同じことを考えていたみたい。
ここからネタバレ ↓
大仕掛けなトリックを仕込むディーバーのいつものやり方とは違い、本作の構成は実にシンプルだし、ミスディレクションはいずれも小ネタ。そういう意味では、多重ドンデン返しを意識して読んだ読者は、まんまと一杯食わされることになるのだが、一般の評価はどうなんだろう。ネットの書評も、「地味」とか「プロットが弱い」なんていうものが散見される。これで多重ドンデン返しものだったら、「またか」という話になったろうから、読者なんて勝手なもんだ(作家のグチ)
ネタバレおしまい ↑
コンピュータが支配する社会の恐怖。なんて出し殻みたいなSFネタのようだが、スニーカー一足クレジットカードで買ったために、個人情報が丸裸にされる展開はかなりホラー。ディーヴァーは苦労して取材したのだろうが、アメリカでのネットの現実ってこんなもんなのかとニヤリとさせられる部分もある。
今回の犯人、“すべてを知る男”522号のプロファイルにこんなところがある。
・コンピューターに明るい。〈Our World〉を知っている。ほかのソーシャルネットワーキング・サービスも?
ソーシャルネットワーキング・サービスを知っているくらいで、コンピュータに明るいと看做されるなら、サイトとblogとmixiをやってるおれなんか、スペシャリストってことかね。それから、今回も登場するルーキー、ロナルド・プラスキー巡査が、SSDなるナレッジ・サービスプロバイダーから情報を盗み出そうとするときに、この若者が、エクセルもパワーポイントも知らないことが分かる。へえ! そんなものなのか。一番笑ったのは、ある架空の人物をでっち上げるエピソード。いろんなサイトにそいつの名前を書き込み、公式サイトまで造るのだが、そんなもん、データを見たらいつアップされたものか分かっちまうだろうにと思ったら、案の定“すべてを知る男”はあっさり見破る。当たり前だろっての。
本作では事件と並行して、リンカーン・ライムの青春時代の苦悩が明らかになっていく。これが随分とわざとらしい話だが面白い。そして、パム・ウィロビー(覚えてる?)が登場して、犯人捜査にからんでくる。もっとも、このエピソードちょっぴり、あの『ビューティー・キラー』を思わせるものがあるんだが。
ジェフリー・ディーヴァーも苦労しているんだなあと、せこい同業者はホッとした一作。
『ソウル・コレクター』 ジェフリー・ディーヴァー 池田真紀子訳 文藝春秋 2009
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否、否! この見事なまでに計算された構図を見よ!

ふうむ。深水黎一郎はうまいなあ。
パリから東北東130キロの地、ランス。そこには世界三大聖堂の一つに列せられている、ランス大聖堂がある、物好きな観光客がこの聖堂を訪れる理由は、それがユネスコの世界遺産だからでも、歴代フランス王の戴冠式が行われた由緒ある建物だからでもない。彼らのお目当てはそこにあるシャガールのステンドグラスなのだ。
十月末の宵、一人の男が大聖堂の塔から落ちて死ぬ。現場に居合わせた刑事マルタンは81.5メートルの塔を駆け上り屋上に至ったが、途中階段ですれ違う者もいなければ、屋上に人影もなかった。しかし、目撃者の一人、浮浪者のオーギュストは、塔の上に天使の姿を見ていたのだ。そして、天使の姿を見たものは死ぬという言い伝えどおり、半年後、オーギュストはシャガールのステンドグラスの前で原因不明の死を遂げる。
しかし、この物語、件の二つの事件に事件性ありということで、コツコツと捜査される話なんかでは全然ない。舞台は現代日本に飛び、警視庁警部補海埜とその甥の瞬一郎の噛み合わないコントに延々付き合わされ、やっと瞬一郎がフランスで出くわした奇妙な殺人事件の話になる。そして、瞬一郎が書き起こした、その事件に関する手記を、海埜刑事が読み進める段になって、読者はその事件が冒頭の二つの怪死事件だと分る。
おれは基本的に、日本人の主人公が外国を舞台に活躍するお話が大嫌いである。そこに登場する作り物っぽい外国人たちには苦笑せざるを得ないし、主人公が金髪美女にもてたりしたらもういけません、読み続けることも出来なくなる。
そんな想いで読み進めるうちに、おれはこのランスという小さな街が段々気に入ってくる。学生寮も小さなレストランもピザ売りも、そして大聖堂も。夢に出てきた見知らぬ街に、後々まで愛着を覚えることがままあるが、そんな気分になってくるのだ。瞬一郎は事件について周囲の人間に話を聞いたり、警察に出かけてマルタン刑事と話したりして、そうしているうちに、あっさり二つ目の事件の犯人を見つけてしまう。動機は理解できるが、殺人方法は(伏線はしっかり張られているとはいえ)物理トリック。なんだかなあ、と思いながら、残り20ページくらいのところで、自殺と思われていた最初の事件の犯人が明かされる。これまた意外な犯人だが、こちらも、ちょいと首を傾げたくなる物理トリックだった。
これで終わり?
と思ったとき、ある人物の死が告げられ、瞬一郎はその葬儀に赴く。そして――
シャガールの黙示の意味が、ここでやっと明らかになる。それは確かに恐ろしい黙示だった(このことは注意深く読み直さないと見逃すかも知れない)。
そして、ちょっぴり苦い想いでこの話は終わる。おれはハッピーエンドのような気がしたが。
こうして僕は、十八歳の一箇月を過ごしたこの街に、今度こそ別れを告げた。この街は僕に、どんな笑顔の下にも、人間である限りは必ずや苦渋が隠れていることを教えてくれた。しかしもうこの街を訪れることは恐らくないだろう。あまりにもいろんなことがありすぎて、この街を歩くのはちょっと辛すぎる。
そうなんだよなあ。夢で見た街にも、二度といくことが出来ないように。
『花窗玻璃 シャガールの黙示』 深水黎一郎 講談社 2009