このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
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また昔の映画の話かよ
DVDでアベル・ガンスの『ナポレオン』前半。安売りでもないのについ、このDVDを買ってしまったのは あまりに懐かしかったから。二十代の頃、家に友達を呼んでは しょちゅう(ママ)このビデオの観賞会をやっていた。 少年時代のナポレオンを演じるウラジミール・ルーデンコの 美少年なこと。アントナン・アルトーが演じている(!) マラーは少し美形すぎる気がするが。
(4月12日の裏モノ日記から)
唐沢俊一がアベル・ガンス『ナポレオン』のファンだったとは知らなんだ。しょっちゅうビデオの鑑賞会を開いていた家とは、青学時代の阿佐ヶ谷の下宿か、東北薬科大学時代の仙台か、はてまた唐沢薬局事務員時代の札幌か。ろくなものも食わずに起き上がることも出来なかった学生時代に、そんな余裕があったとも思えないし、薬剤師にもなれずに店を継げぬ穀潰しが、「しょちゅう(しょっちゅう、だろうな)」ビデオ鑑賞会を行っていたとも思えない(唐沢ならあるかも知れないが)。
まあ、学生時代の話と友達の話は封印している唐沢の貴重な20代の逸話だが、やっぱりちょっとへんだよな。「安売りでもないのについ、このDVDを買ってしまった」ってどういう意味? そうした青春時代の思い入れがない限り、DVDは総て安売りを買っているってこと? そして、笑ってしまうのが、「アントナン・アルトーが演じている(!) マラー」という文章だ。この(!)はなんのつもりなんだろうか。アントナン・アルトーは俳優兼劇作家兼詩人。マラーを演じても、ことさら(!)といった人物ではない。まあ、現在で言えば「ウッディ・アレンが演じている(!)」と書くようなものだ。唐沢はwikiあたりでアントナン・アルトーがどんな人物か知ったのだろう。そして、「あの偉大な詩人のアントナン・アルトーが、ここでは俳優として演じている(!)」と知ったかぶりをしたのだな。
しかし、本当に最近の映画は見ていないねえ。
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手に入れたくてたまらないのに、いくら努力しても手が届かない対象(人、物、地位、階級など)がある場合、その対象を価値の無いもの、低級で自分にふさわしくないものとみなす事であきらめ、心の平安を得る。フロイトの心理学において防衛機制、合理化の例として有名。また、英語圏において"Sour Grapes"は「負け惜しみ」を意味する熟語にもなっている。
(Wikipediaより)
なるほど。
手塚治虫、イチロー、ガンダム、ゴジラ、ナチュラリスト、etcetc
なるほど。
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唐沢がまたおかしなことを書いて「突っ込んでくれ!」と懇願しているようなので、リクエストにお応えしよう(あまりおねだりして、そのケのある連中に「おやかったモノ」を突っ込まれても知らないよ)w
記憶に残すべきは鏑木創の幻想的な音楽とやはり幻想的な 桂長四郎の美術だろう。眼が肥えている筈の現代の映画ファンに、このセンスを受容できるだけの許容度があるだろうか?
(4月11日の裏モノ日記から)
中島貞夫監督『くノ一忍法』(1964年)について書いているのだが、この数ヶ月唐沢の日記にはこの手の話が顕著に見受けられる。総ては昔の映画は凄い、今はこんな映画作れないという論法で、親父の昔は良かった論ともとれるが、リアルタイムで見ていたはずもない作品がほとんどなのだ。この映画だって6歳の唐沢がリアルタイムで見たのではなく、現在の唐沢がDVDで見ているんだが。いや、それが悪いと言っているのではない。問題は、唐沢が現代の映画を全く見ていない(日記に、試写を含め映画を見たという記述が一切ない)ことだ。日記に書いていないだけとは思えない。通りすがりの婆ぁがすれ違い様に、自分の顔を見て「いいものを見た」といった表情をしたなんてことを嬉々として書き、毎晩ホッピーの肴にDVDを見た(これがまた古い映画ばかり)と書きながら、映画に関する著作(自費出版)もある唐沢が、一言も触れないというのはどう考えたって不自然だ。最近の映画を見もしないでなんと比較しているんだろう。
ところで。
眼が肥えている筈の現代の映画ファンに、このセンスを受容できるだけの許容度があるだろうか?
って、どういう意味。「眼が肥えている筈の現代の映画ファン」という言い回しがまず変。「筈の」と書いたら「~な筈なのに、そうではない」といった否定的な論旨になると思うよね。つまり「眼が肥えている筈の現代の映画ファン」には、「桂長四郎の美術」の良さが分からないとれる、と思って先を読むと、このセンスを受容できるだけの許容度があるだろうか?とくる。「許容度」ってなんですか? 辞書にも載っていない言葉。ネット上だと「リスク許容度」という語は見つかるけど。多分「このセンスを許容できるだけの度量があるだろうか?」と書きたかったんだと思う。しかし、これも変、許容とは「大目にみること」という意味だからだ。「この(酷い)センスを大目にみられるだろうか」じゃ、桂長四郎を貶すことになる。
唐沢は、最近の映画は全く見ていないし、その知識もない。だから、現代の映画ファンに対してはコンプレックスを持っている。そこをなんとか日記で腐して憂さを晴らそうとしたのだ。つまり、
現代の映画ファンなんか、「目が肥えている」と自負しているようだが、この昔の「桂長四郎の美術」の良さが分かるような教養を持ち合わせてはいないんである。
と振りかぶりたかったのに、文才がないところにホッピーが効き過ぎて、かくも無残な文章になったわけなんである。
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反省します
いやあ驚いた。思い込みとは、恐ろしいものだ。
唐沢が『エンサイスロペディア』というコラムを連載している『パチスロ必勝ガイドNEO』について、唐沢俊一検証blogにこんなことが書かれていた。
あと『パチスロ必勝ガイドNEO』は本屋で見つけるのがすごく大変です。本当にどこにも置いてないんだ。
(4月9日のコメントに対する返し)
実はまさにその通りで、わたしも、土日に都内の目ぼしい本屋をざっと廻ったのに見つけられなかった。仕方ないので、「白夜書房の公式サイト」を参照していたのだ。タイトルが「パチンコ&パチスロ必勝ガイド」となっていたので、てっきりパチンコとパチスロの攻略に関する雑誌なのかと思っていた。だから、『エンサイスロペディア』第19回の『24-TWENTY FOUR-』に関する記述(雑誌が手元にないので、検証blogからのコピペです)、
パチスロの魅力というのは何か、と言えば、先行きが見えないところだろう。当然で、毎回、今日は必ず勝つ、あるいは必ず負ける、などとわかっていては、面白みも半減する。勝つか負けるか、出がいいかどうか、大当たりになるかどうかは、テクで左右されるとはいえ、神様にしかその結果がわからない。ドラマというものも、先行きが見えてしまっては面白くない。見ている方をしてアッ!と声をあげさせるような展開があって初めて面白い。
「出がいいかどうか」というのも、パチンコのことをさして言っているのだと思っていた(それ以前に、まったく無内容で、ページ数稼ぎなのは、kensyouhanさんの指摘通りなんだけどね)。ところが、2008年3月号に掲載された『エンサイスロペディア』第10回で、唐沢俊一は『インディ・ジョーンズ』について、こんなことを書いていたというのである。これもまた、検証blogからのコピペです。
パチスロをずっと打ち続けていて、それが夢に出てくることというのがないだろうか。夢の中で自分が玉になって、穴の中に落ちていったり、また玉に追いかけられたりしたことが、昔は筆者にもよくあった。聞いてみると、大抵のパチスロ・パチンコファンもそうであるらしい。 だから、『インディ・ジョーンズ』シリーズの第一作、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の、冒頭の、巨大な丸い岩に主人公が追われるシーンを見て、パチンコファンの友人たちと、“スピルバーグというのはパチンコにハマったことがあるんじゃないかね”と、笑ったものである。
これに対して、わたしは、検証blogのコメント欄にこんなことを書いた。
>あと、例の岩がゴロゴロ転がってくるシーンは
なんと言っても、キートンの『セブンチャンス』でしょうねえ(バイオ・ハザードにもありましたけど(何回死んだか))。『セブンチャンス』では丸い巨岩が何十個と転がってくるので、ピンボールのイメージはこちらの方が強い。 パチンコにはまっていた頃、パチンコの夢はよくみましたが、自分が玉になったことはありません(盤面をごうごうと大河の如く玉が流れていく夢でした)。『インディ・ジョーンズ』だって、玉に追いかけられているだけで、玉になっているわけではないし。
そう書き込んでから、他の人のコメントを読んで、思わず「えーっ!」と声を出してしまった。唐沢の文章の冒頭をもう一度見てみよう。
パチスロをずっと打ち続けていて、それが夢に出てくることというのがないだろうか。夢の中で自分が玉になって、穴の中に落ちていったり、また玉に追いかけられたりしたことが、昔は筆者にもよくあった。
はい? パチスロを打ち続ける? 自分が玉になって、穴の中に落ちて? おいおい、それはパチンコの話だろうと、もう一度コメント欄を総て読み直して、とんでもない事実に気付かされた。
当たり前の話だが、『パチスロ必勝ガイドNEO』というのはパチスロの雑誌なのだ。白夜書房のサイトでは『パチンコ必勝ガイド』『パチスロ必勝ガイド』をひっくるめて、『パチンコ&パチスロ必勝ガイド』というタイトルを付けていただけだった。『パチスロ必勝ガイドNEO』にはパチンコのことは載っていない。だから唐沢のこれまでの記述は総て、『パチスロ』という設定で書かれていたのだ。実際に雑誌を見ずにいたので、とんだ勘違いをしていた。読みもしないで憶測で書いていたのは汗顔の至り。反省します。
しかし、もっと酷いのは唐沢の方である。こいつはパチスロがどんなものであるかも知らず、なおかつ掲載誌がなんの専門誌かも知らず、ずっとコラムを執筆していたのだ。フィギュアの専門誌に、「バルキリー」と「ガンダム」を取り違えて書いているくらいみっともないことなんだが、なんで読者から指摘がなかったのだろう。こんなつまらない連載、誰も読んでいないということなのか。
コメント欄では、「garo13」という方が、
この人、完全にパチンコとパチスロを混同しているようですね。 「昔は筆者にもよくあった」などと書いていますが、本当にパチスロやパチンコをやったことがあるのでしょうか? 「パチスロも~なかなか出ないときは悪夢みたいなものであり」と書いていますが、パチスロは「出る、出ない」ではなく「揃える、揃わない」「引く、引かない」と言います。 この場合なら「なかなか揃わないときには」「なかなかBIGを引けないときには」と言いますが、間違っても「なかなか出ないとき」などとは言いません。 このページで引用している文章だけから判断する限り、この人は、パチスロも、パチンコのように玉を打って穴に入ると玉がジャラジャラと出てくるゲームだと思い込んでいるのではないでしょうか? もしかすると、一度も実機を見たこともなく、「パチスロ」という名称から「パチンコ+スロットマシン」だと思い込んでいるのでは? 兎に角、こんなデタラメな文章がパチスロの専門誌に掲載されているのならば、全ての読者が私と同じように感じたと思います。
と指摘し、「よく通したな編集」というHNの方が、
パチスロは玉を一切使いません。
それなのに、この原稿、よく編集部が通したものです。
確実に唐沢はパチスロというものを知らないのでしょう。
と書き込んでいる。
パチスロとは、言うまでもなくスロットマシンのことである(スロットルマシンではないぞ)。パチンコ屋の台のスペースにぴたりと収まるサイズにしたのでパチスロと呼ばれるようになったのだ。因みにこれが、唐沢が2008年3月号で取り上げていた、インディ・ジョーンズのパチスロである。

(SANKYOのサイトから転用)
これが、パチンコみたいに玉を打つ遊具でないことは一目瞭然だろう。つまり『パチスロ必勝ガイドNEO』での唐沢の仕事は、
自分が執筆している雑誌を読んだことがなく、その雑誌で取り上げている遊具に関する知識が皆無なため無関係なことを書き捲くり、しかも、それすらおざなりな内容で、なおかつ、編集者も一切原稿を読まず、チェックもせず、読者からも完璧に無視されているので、その内容が間違っていることが指摘されずに、毎月恥知らずなガセを垂れ流す
という酷いものなのだ。
いや、唐沢さん。本当にあんたは美味しいよ。
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唐沢俊一が、4月10日の裏モノ日記にまたおかしなことを書いている。こうしばしばだと、突っ込んでもらいたくてわざと書いているのではと邪推してしまうね。まんまと策にはまっているのかしら(今頃気付いたか)。
バナナリンゴニンジンジュース(長いと思うが、これを “バリニジュース”とか“ABCジュース”とか名付けて そのシャレっ気を喜ぶ、というセンスが私にはない。むしろ 鳥肌が立つ。いい家の出でない証拠みたいなものである)
なに、このしょうもない文章。なにが「シャレっ気」なんでしょうか。「いい家の出でない証拠みたいなものである」なんて、あんたが生まれも育ちも劣悪な生まれはともかく、育ちは劣悪なことは日頃の言動を通して皆様、よおっくご存知なんで、別にわざわざ断わることもないし。
幻冬舎の女性編集者が「トテモカワイイ」ので、トテカワさんと呼ぶような、鳥肌が立つようなことを得々としてやっていたのはあんたじゃなかったのかね。
まさか、その「シャレっ気」が「いい家の出である証拠である」なんて言うんじゃあるまいね。
もう、日記公表するのやめたら?
※ 一部不適切な表現がありましたので、訂正しました。
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唐沢俊一の書く文章はなんでヘンテコなのか。
ガセとパクリは、もはや日常茶飯事。誤字脱字、推敲にも校正にも無縁な酷い文章。だが、それ以前に支離滅裂さ論旨の飛躍はどんどん顕著になっている。なんでこんなにヘンテコになってしまったのか。ちょいとそれを検証してみたい。
唐沢には文章で身を立てたいという夢があった。まあ、少なくともこれまでの言動を見るにつけ、まっとうな会社勤めなんかは無理だと思うから、それは当然の選択だろう。もっとも、苦労せずに、一気に一人前と認められたいという身勝手な根性も見え見えで、それが常に「偉そうな=上から目線」という態度になって現れている。つまり、ちゃんと文章修行をしなかったわけで、そのツケが今頃廻ってきたのだろう。
他人を悪し様に言う人間が、ガセとパクリを繰り返し、まともな文章を書こうとしても、無教養で常識もないから無理な上に、言葉遣いまで間違っているとあっては、本来なら恥ずかしくて表を歩くことすら出来ないはずだが、恥知らずという生来の性格のおかげで、今も余命を保っているようだ。
実家の薬屋でPCに打ち込みしながら、ボディビルに凝って、白衣の下はブーメラン型のブリーフ一枚と、精神的にぶっ壊れかけていたのが、弟の七光で文筆業を始められ、再び東京の地を踏んだときの、唐沢の心境は、想像に難くない。
これは地方出身者の大きな通過儀礼なのだ。つまり、一生生まれた田舎で過ごすのか、東京人として生きていけるのか。唐沢は紆余曲折の末、やっとこさ文筆業を生業に出来るようになり、いまや数十という著作を上梓しているということは、その内容に目を瞑れば慶賀と申し上げるしかない。
そうした、夢を抱いて上京してきた人間の言葉を引いて、唐沢はこんな文章を書いている。4月6日の裏モノ日記から。
たかぎなおこ『浮き草デイズ』(文藝春秋)の中に、地方から 出てきた著者が、プロになって何冊も本を出した今でも、 桜の季節になると「ああ、今年も東京で桜が見られたな」と感慨にふけってしまうというくだりがあり、ちょっと涙が出そうになった。今の私はもう田舎に帰る家もなく、たとえ野垂れ死にを するにせよ東京で、ということになるだろうが、しかし 桜の季節になると、いいことも悪いことも含め、思い千々に乱れるのである。逆に言うと、桜という罪な花の呪縛に日本人は永久に 捕らわれて、“一年”という単位でしか人生を区切れなくなっているのではないか、と思う。
ちょっといい話を語るのかと思いきや、なんかヘンテコな結論になっているでしょう。いや、この文章最初から可なり変なのだ。
たかぎなおこ『浮き草デイズ』は、夢を抱いて上京してきたたかぎの自叙伝である。お金も仕事も友達もないという状況、でも暗くはならずに、夢を実現させていく様をほのぼのと綴っている。イラストレーターとして成功した今も、
「ああ、今年も東京で桜が見られたな」と感慨にふけってしまうという想いは、失敗したら東京に住んでいられなくなるという不安感から生まれるものだ。ところが、唐沢はそこからこんな自分語りをする。
ちょっと涙が出そうになった。今の私はもう田舎に帰る家もなく、たとえ野垂れ死にをするにせよ東京で、ということになるだろうが、しかし 桜の季節になると、いいことも悪いことも含め、思い千々に乱れるのである。
おかしいでしょう。唐沢は東京人ぶって、帰る家がないなんて書いているけど、本当の東京人にはそんな感慨はありっこないのだ。失脚すれば失意の目で東京の桜を眺めるだけのこと。つまり、夢破れて都落ちしていく人間の「東京の桜」に対する思い入れとは全然違うのだ。
わたしもそうだが、東京(首都圏)に生まれ育った人間は、その地の学校に通い、その地の仕事に就くことを当然だと思っている。いや、私淑する学者を慕って地方の大学に行くとか、積極的に東京を離れるというケースもあるだろうけど、一生地元で生きるのか東京に行くのかという二者択一で悩むなんてことは当然ながらない。別にそれが偉いと言っているわけではない。生粋の江戸っ子植草甚一は、地方出身者が青雲の志に燃えて上京し、志が果たせなければ死すとも帰らずの覚悟で臨んでいるときに、東京の人間は「こんなこと言ったら恥ずかしくないかしら」なんてことを考えながら生きているのだから、なにをやっても敵いっこないと看破している。その通りだと思う。
帰る地のない唐沢は、桜の花になにを思うのか。ガセとパクリがばれ、雑学王の名は一敗地に塗れ、心ある友人は去り、いや、上辺だけは取り繕って接して来る人間だって、心の中では「この盗作野郎が」とせせら笑っているに違いない。そうした疑心暗鬼に「いいことも悪いことも含め、思い千々に乱れるのである」となってしまうのだから、たかぎなおこの想いとは全然別のものだと言っていいだろう。つまり冒頭でたかぎなおこの言葉を引く意味は全くないのだ。さらに、
逆に言うと、桜という罪な花の呪縛に日本人は永久に 捕らわれて、“一年”という単位でしか人生を区切れなくなっているのではないか、と思う。
と続けるが、これまた訳のわからん文章だね。「逆に言うと」というのもよく分からんが、2ちゃんねるでも散々指摘されていた「“一年”という単位でしか人生を区切れなくなっている」という文章の酷さは反論する気さえ失せさせる。人生を区切るとはなんぞや。いや、十年二十年という長期的なスパンで物事が考えられなくなっていると言いたいのか。だとしたら、そんな事実が本当にあるのか根拠を示して欲しい。政治こそ「選挙」という単位で区切られてしまっている今日だが、少なくとも真っ当な企業なら、当然のように長期ビジョンを持っている。一歩譲って「“一年”という単位でしか人生を区切れなくなっている」という状況下にあるのだとしても、それが桜のせいだなんて考えるのは唐沢一人だろう。
唐沢はなんで、こんな文章を書いたのだろう。言いたいことをまともな文章に直すと以下のようなことなのではと思えるのだが。
ガセとパクリがばれて、仕事は激減。取り巻きの中には掌返すように去っていく奴もいる。ひょっとしたら、このままジリ貧になり、この仕事が続けられなくなって野垂れ死ぬんじゃなかろうか。桜を見るとそんな考えが脳裏に浮かび、思い千々に乱れて、涙が出そうになった。桜なんか大嫌いだ。
曲がりなりにも文筆業を標榜するなら、このくらいの文章は書いてくれよな。論旨が明快で分かり易いでしょう?
結論。
ガセとパクリがなくても、こんな酷い文章しか書けない。その理由は破滅するのではという強迫観念(脅迫じゃないよ)や、なにかにかこつけた自己弁護、そうした文章を書いているからだろうね。イッセーの前説の例もあるように唐沢は打たれ弱い。
文章でサバイバルする難しさを今一番実感しているのは唐沢本人だろうな。
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雷ってなんだか知っていますか
学生時代、雷の研究をしていた。本来その研究室は、誘電体や絶縁、遮断機(踏切じゃないよ)なんかを研究する所で、実際、そうした研究には重電メーカーなんかから、何百万円といった研究費が出ていた。わたしの研究のテーマはちょっと違っていて、雷のあのゴロゴロいう音をコントロールして、シンフォニーを演奏させるというものだった(よくもまあ、卒業研究としてOKが出たものだ)。雷のあのゴロゴロ音の正体は、膨大な熱エネルギーが瞬間的に生じ、それが空気を急激に膨張させることで発生する衝撃波なのである。だから、コントロールのしようなどなさそうだが、ブレークダウン以前の部分破壊、つまりコロナ放電の段階なら可能で、実際にエレクトロボイス社等で商品化もされていた。しかし、わたしが目をつけたのは、この研究室で観察された新しい放電現象だった。高電圧回路に巨大な抵抗を繋ぐと、間隙に形状はアーク放電だが低電流という放電が発生する。これをコントロールしてみようと思ったのだ。
紆余曲折の末、トランスを介して送った信号により、チロチロとヘビの舌のように伸びる放電に合わせて『時の過ぎ行くままに』(当時流行っていたのね)の沢田研二の歌声が聞こえてきたときは思わず涙が出たものだ。何百万ボルトという大電圧から生じた放電だから、実用性なんか全然ないのだけれど。
当時、雷に関しては、積極的な研究は(わたしが知る限り)余り行われていなくて、前述した遮断機等の研究以外には、送電線のコロナ放電を抑制するとか、落雷を防ぐとか、どちらかといえば被害を減らすようなものが大勢を占めていた。
今、この文章を書くにあたってWikipediaの「雷」を見直したのだが、わたしが三十数年前に習ったこと以外にほとんど新たな情報は見つけられなかった。
で、神保町で偶然本書を見つけたのだが。
著者宅間正夫は、東京大学工学部電気工学科を卒業し、東京電力に奉職、発電所長、役員などを歴任し、日本原子力学会会長も務めたという輝かしい経歴の持ち主である。タイガースフアンを自認し、「電気屋でかつトラキチ」なら、雷様がなんで虎の革のフンドシを締めているのかという謎を解かねばなるまいと雷の研究を始めたという。
碩学が本気で挑んだのだから、面白くないはずがない。民俗学、宗教学、雷除けまじないから、日本各所の雷、絵画、文学、狂言、落語、小咄に至るまで、その博学ぶりを披露する。と言っても、学者が書いたガチガチの文章ではなく、軽妙洒脱。表紙のイラストから本文のカットまで自分で描いているという多才な人なのである。
積乱雲(入道雲、鉄床雲)が真夏の空にもくもくと湧き起こる様は、なんとも力強く胸の高まりを覚えるものだ。著者によれば、高さ1万メートル(対流圏内)にも及ぶ積乱雲から、地上に向かって放電(落雷)すると、それをはるかに超えた成層圏(高度5万メートル)で、上方に向かって「ブルージェット」と呼ばれる青色の発光が観察されるらしい。さらにその上空9万メートル(中間圏)ほどのところで円柱状のスプライトと呼ばれる赤い発光が見られる。さらにさらに、10万~11万メートルの上部中間圏から下部熱圏にエルプスという赤いリング状の発光が瞬間的に発生する。エルプスは水平方向の直径が100~300Kmという巨大なものだ。
凄いなあ。雷は積乱雲内で氷の細粒がぶつかりあって生じる静電気によって起こると思われてきたけれど、こんな不思議な現象を聞くと、もっとずっと複雑なメカニズムがありそうだという気がしてくる。
その道の専門家が書いたものには説得力があるし、安心してその知的世界の海に漂うことができる。
それほど入手しやすい本ではなさそうだが、ご一読をお薦めします。
『雷さんと私』 宅間正夫 三月書房 2006
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唐沢が裏モノ日記で、またおかしなことを書いているので、検証してみよう。
水谷さんの歌った歌詞の中に“凶暴な「ゾグ」に襲われて”というのがあり、ゾグって何だ? と思っていたら、終演後、“某”域員さんから、なかなか凄い話を聞く。
「こないだ、仕事で行ったある地方の焼鳥屋で、ムチャクチャ安い鶏の足があったんですよ。中国とかからの輸入品にしても、こんな安さおかしいんじゃ ない? って言ったら、近くにいたお客が、声をひそめて “実はこれは鶏の足じゃない、ゾグの足なんだ”って言うんですよ。“ゾグって何です?”“バイオテクノロジーで作られた新種の生物でね、一匹から、足の肉が十本もとれるんだよ” ”え?”“もちろん、まだ市場には出ていないけどね。外食産業にいま、ゾグは 鶏にかわってどんどん使われはじめている。ケンタッキーフライドチキン がKFCって社名変更したろう? あれは、チキンじゃなくってゾグを 使っているってわかったときに、詐欺で訴えられないように、社名から チキンって言葉を削ったんだ“ って説明されて、へえ、そうなんだって……唐沢さんは知ってますか、 ゾグの話?」
最初、日遅れのエイプリル・フールかと思ったが、どうもマジらしい。さて、これをどう、都市伝説ですよ、と説明したらいいか。
「そんな新種の生物、食材に使ったら値段が高くてかえって値上がり しちゃいますよ。安くしたいならごくフツーのブロイラーを使うのが 一番なんす」
とは説明したが……わかってくれたかな?
「でも、”ゾグ“ってどういう意味ですかね?」
「足(そく)に濁点つけたんじゃないですか」
と言ったら”あっ!“とは言っていたが。
ちなみに、”足のたくさんあるニワトリ”と聞いて、真っ先に思い浮かべたのはこれ↓(1:50くらいのところ) http://www.youtube.com/watch?v=Cahks8oV9mQ&feature=related ちなみに、足を何本に増やそうと、胃袋の大きさなどが同じで あれば、摂った栄養がそれだけ分割してしか行き渡らないわけで、矮小になるだけで、大して生産性は向上しないのでは。
唐沢俊一検証blogで、「パチスロ必勝ガイドNEO」4月号掲載『エンサイスロペディア』のウルトラマンの記述がいかに出鱈目かが検証されている。
→「地球はウルトラマンの星」
唐沢はこう説く。
ウルトラマンが最初に登場したとき、子供たちの熱狂とは裏腹に、オトナたちの評判は決して高くなかった。前作『ウルトラQ』が、怪獣や宇宙人の侵略に対して、人類が知恵を絞って戦うというストーリーだったのに、新作では、銀色の仮面をかぶったような、宇宙人が登場する。怪獣を倒せる武器を持たない人類は、ただ、自分たちにもその正体がわからない謎の宇宙人に、自分たちの生命と安全を託し、見守っていることしか出来ない。
さらに、
ウルトランを在日アメリカ軍に見立てて、アメリカの核兵器の傘の下で平和を守られている日本の現状を肯定しようとする卑屈なドラマである、と『ウルトラマン』を酷評した人もいた。ウルトラの生みの親とも言うべき脚本家の金城哲夫は、沖縄出身で、まだ当時アメリカのものであった故郷・沖縄の現状も知っていたから、その点で深く悩んだという。実際、ウルトラマンの登場は、当時アメリカへ特撮番組を売ろうとしていたテレビ局側が、アメリカのバイヤーの希望により注文を出したというから、この見立てが必ずしも不当なものだったわけでもないのではないか、と思う。
驚きましたね。「アメリカのバイヤーの希望により注文を出したというから」なんて話は寡聞にして知らなかった。根拠はなに? 資料を示してよ、なんていっても無駄だよね。ただ、ガセを書いているのだから。いや、このあたりの検証はkensyouhanさんがきちんとやっているのでそちらをご覧下さい。
ええと。
冒頭の「ゾグ」のお話となにか関係があるのか。ウルトラマンに詳しいあなたなら疾うにお分かりだろう。唐沢が本当にウルトラマンの専門家なら、“凶暴な「ゾグ」に襲われて”と訊いて、ゾグって何だ? と思っていたりするわけはないのである。「ゾグ(ZOG)」はウルトラマンガイアに登場する最強の怪獣なのだから。第一形態は天使、第二形態はドラゴン(?)。水谷さんが歌っていたのが、このゾグのことかどうかは不明だけど、この事実を知っているなら「なんでここにゾグがでてくるんだ?」と思いこそすれ、ゾグってなにと思うはずがない。
因みに、ゾグが登場する最終話のタイトルが「地球はウルトラマンの星」、つまり唐沢とウルトラマンの検証に、kensyouhanさんが付けたタイトルなんであります。なんたるシンクロニシティ。
しかもだ。
KFCで多足の鶏が使われているなんて都市伝説は、一体いつの時代の話だよ。それをまあ、さて、これをどう、都市伝説ですよ、と説明したらいいかなんてお間抜けなことを書いていやがるし。最後に、
ちなみに、足を何本に増やそうと、胃袋の大きさなどが同じで あれば、摂った栄養がそれだけ分割してしか行き渡らないわけで、矮小になるだけで、大して生産性は向上しないのでは
なんて自信なさげな文章で結んでいるところが、なんとも唐沢らしい。胃袋の大きさが変われば、多足鶏ありですか。そうですかw
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部屋の整理が大分進んだ。
文庫本は当分段ボールから出さないと決めて、壁際に積み上げたら23箱もあった。それに目を瞑れば、なんとか片付いた形にはなった。押入れが開け閉めできないのと、出入りが不自由なのにも当分目を瞑る。
蔵書の整理をしていると、おやまあなんて事態も発生する。例えば――

山本嘉次郎『日本三大洋食考』と『洋食考』
まさか『三大』の方を二冊持っているとは思わなんだ。それほど入手し易い本ではないからなあ。二冊とも昭文社出版部昭和48年の初版本。表紙のイラスト及び装丁は伊丹十三。
伊丹がこのイラストを書いているときの逸話は、『日本世間噺大系』(文藝春秋昭和51年)の中で「肋骨」というタイトルで紹介されている。

『洋食考』は、すまいの研究社昭和45年の初版本。これは赤羽の紅谷書房で購ったものだ。こちらの装丁は時代小説の挿絵画家として著名な村上豊。「食べ物のダンディ学」というサブタイトルとは裏腹な、随分和的なデザインだなと思ったが、これは『洋食考』というタイトルが、そもそも内容に合っていないのだ。洋食に関する考察は全4章の1章のみで、後は全国の旨いもの、著者の幼年時代の下町のおかず、ごちそうなんかが主たる内容なんだもの。
こうして道草を食っているので、なかなか整理がつかないのだが、これは引越時のお愉しみの一つですもんねえ。
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お前に言ってるんだよ、唐沢俊一
ガセを書くかパクるしか能の無い馬鹿、唐沢俊一が31日の『裏モノ日記』で、また出鱈目を書いている。広告業界のことなんかなにも知りはしないことは、もうとっくにばれているのだから、知ったかぶりはやめるように。土屋耕一氏の訃報に接して、
コピーライター、土屋耕一氏死去、78歳。『君の瞳は1000ボルト』も『A面で恋をして』も、土屋氏のコピーをそのままタイトルにしたヒット曲。
『君のひとみは10000ボルト』だ。『君の瞳は1000ボルト』では、語呂も悪く、歌詞としてメロディに乗らないだろう。そんな基本的なことも理解できないくせに、広告コピー云々など一丁前に語るんじゃないよ。さらに、
土屋氏の遊びの精神は糸井重里や河崎徹に受けつがれ、70年代末にコピーライターの黄金時代をもたらしたが、現代のCMコピーは、このような遊びの次元からはちょっと距離をおいて、よりダイレクトもしくはストレートなものになっている気がする。
人の名前くらいちゃんと調べて書け。川崎徹だ。しかも、川崎徹はCMディレクターであってコピーライターではない。「よりダイレクトもしくはストレートなもの」とは具体的になにを指すのか実例を挙げてもらいたい。ついでに、ダイレクトとストレートの違い(コピーライティングに於ける)を教えてくれないか。
遊んでいる余裕がなくなったのか、そもそも言葉で遊ぶだけの教養が消費者に無くなったのか。
無礼極まりない。教養がないのはお前だろう。