このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
・
ブログにも書いたんですが。
1、kensyouhan著『唐沢俊一検証VOL.1 盗用篇』が完成、夏コミで直接贈呈される。また、本書の書評が『映画秘宝』に掲載される。
当日、kensyouhanブースを訪れた主な方々(敬称略)
大野典宏、漫棚通信、知泉、伊藤剛、昼間たかし、永山薫、古賀、倉知淳、竹熊健太郎。藤岡真
2、ジュンク堂で開催予定だったトークイベントをドタキャン。そのまま緊急入院するも、入院の段取り、治療法などに疑問多々あり、仮病説もでる。また、退院した日から大酒を飲んだと日記に書き、似非無頼派を気取ったところも。
3、身内からの造反、批判が相次ぐ。
「トンデモ本大賞」のイベントで、著作を「トンデモ」と認定された大内明日香が造反(その後、和解?)、また山本弘「と学会」会長が、唐沢の度重なる盗用に切れて、会合への参加、「トンデモ」を冠した著作の出版休止等のペナルティを課すが、植木不等式(退会)、藤倉珊の反対により撤回した。さらに、唐沢とも付き合いの長い、編集者、額田久徳は唐沢の盗作問題を同業者に問う行動に出る。
4、初のビジネス書『博覧強記の仕事術』を上梓。博覧強記の意味を間違えた所からスタートしている、出版事故的ビジネス書。
5、青山学院大学卒業の疑問が再燃
学食に関して書かれたエッセイが事実とは違うことに、卒業生から多くの意見が寄せられる。また、青学入学当時に「親に勝手に大学を休学した」と日記に書いていることが判明、東北薬科大学のみならず、青学も中退したのではとの疑問が再燃した。
6、唐沢俊一検証がさらに充実。
新たに松沢呉一、宅八郎、岸田裁月が参入。mixiに検証コミュも立ち上がる。さらに、「カラシュンの食卓」「唐沢俊一P&G博覧会」といった新サイトも。
7、自分が本当にやりたいのは「芝居」であると告白。しかし、日記では「酔って舞台に上がった」「出番の少ない芝居なので切符を売る気がない」「すっぽり台詞を抜かした」等、思い上がった態度を自慢、ついには「あぁルナティックシアター」について「ユルユルのコメディばかりやっている劇団」とし、そんな劇団に関わっているのが恥ずかしいとまで発言した。座長橋沢進一との関係が危うくなったのか、橋沢の誕生日に見え見えのヨイショを日記に長文で書き、失笑を買う。
8、単行本ばかりでなく、雑誌連載中の記事にもP&G続出を検証される。
9、忌野清志郎、加藤和彦の訃報に接して、無茶苦茶な追悼文を書き、心ある人々の怒りを買う。
10、死体遺棄容疑で逮捕された、市橋達也に対しての異常とも思える愛情を吐露。ああやっぱりと世人を頷かせる。
次点、快楽亭ブラックのblogにより、唐沢が出演している寄席落語会が不入り不評であることが露見する。
付記:『唐沢俊一検証本VOL.2-ガセビア編-』、『トンデモない「昭和ニッポン怪人伝」の世界』が冬コミにて販売される。
その他にも、三越のイベントが客が集まらずに中止になったとか、唐沢なをきが『まんが極道』で再びパクリをネタにして、よしこ夫人が「パクリネタは好評なのでまだまだ描く」と宣言したり、枚挙に暇はありません。
・
ツマンナイ

なんか知らんが滅茶苦茶に評判のいい小説。年末の恒例ベスト10にも選出されるのだろう。しかし、おれには全然面白くなかった。まあ、一人ぐらいツマンナイという人間がいてもいいじゃないか、というところで気楽にいく。
家族を描いたハードボイルドといった(ような)言葉で評しているものをいくつか見かけた。その通りなんだが、それだったら、ロス・マクドナルドという物凄い先達がいる。『ウイチャリー家の女』『さむけ』『縞模様の霊柩車』。比べては気の毒だが。いや、リュ―・アーチャーはあくまでも第三者という立場から、他人の家族に関わるだけじゃないか。この話は主人公が当事者なんだぞ。そんな反論もあるだろう。そう、そこはテネシー・ウィリアムスなんだよなあ。『熱いトタン屋根の上の猫』を実は連想した。特に父親との葛藤なんてね。でミステリの部分は、映画化されたクリスティの某作を髣髴とさせる(特に犯人像が)。
読み終わってみれば、登場人物は、皆“いい子”なんだよなあ。犯人にしても。それでいて決してハッピー・エンドというわけでもないのだが。
雛形を集めた中途半端な作品といった印象。翻訳の人称「僕」っても浅薄な感じがしていやだった。
ゴメン。感動した人。
『川は静かに流れ』 ジョン・ハート 東野さやか ハヤカワ文庫 2009
・

さて今回は大胆なネタばらしの連続なので、『母なる証明』を未見の方、及び『幻の女』『ホッグ連続殺人事件』を未読の方は、絶対にお読みにならないで下さい。
「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」
ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』稲葉明雄 訳 早川書房
ミスディレクションを仕掛けるときに難しいのは、隠された真相より、いかにもそれらしく見える偽の真相の方だ。その偽の真相を完璧に造り上げた奇跡のような傑作が『幻の女』である。
ご存じない方はいないとおもうが、念のためにストーリーを紹介する。
スコット・ヘンダースンは夫婦喧嘩の末、夜の街に飛び出した。そこで奇妙な帽子を被った女と知り合う。ヘンダーソンはその女と酒を飲み、食事をし、劇場の最前列でショーを見た。名も知らぬまま女と別れたヘンダーソンは帰宅する。そこで彼を待ち受けていたのは、ニューヨーク市警の刑事だった。妻は殺されていて、ヘンダーソンは殺人容疑で逮捕される。自分のアリバイを証明してくれるのは、あの「幻の女」しかいない。逮捕された彼に代わり、親友のジャック・ロンバートは「幻の女」を捜すのだが。
ストーリーは極めてシンプル。この手の物語としたらガチガチの型にはまったものなのだが、実はここが大変重要なポイントなのだ。読者はスコット・ヘンダースンの罪は無実と分かっているし、目的は唯一「幻の女」を捜すことである。このお約束があれからこそ、あの物凄いどんでん返しが効いてくるのだ。読者は「幻の女」の行方に気を取られているから、不意打ちに全く気がつかない。
ま、いくら褒めても、おれの手柄じゃないけどさ。
もう一つ、ミステリの例『ホッグ連続殺人事件』W・デアンドリアを挙げる。発表された当時、この作品はかつての本格黄金時代を髣髴とさせる「外連味に溢れた」ミステリと紹介された。ニューヨーク州スパータで発生した連続殺人事件。HOGと名乗る犯人は、不可能とも思われる殺人を実行し、不敵にも犯行声明を送りつけてくる。おお、なんともドキドキするストーリーではありませんか、と期待に胸膨らませてページを繰ったおれは、直ぐに「あれ?」と首を捻った。それはHOGの犯罪に、全く「外連味」がなかったからだ。一見、事故に見えたり、自殺に見えたりする事件、それがHOGの手による巧妙な殺人だと言うのだが、ここであっさりトリックが見えてしまった。これはHOGならぬABCの遣り口ではないか。
なんでそう看破出来たか(看破しようと思って読んでいたわけではない)といえば、この事件が『幻の女』みたいに型にはまっていなかったからだった。だから、偽の真相(殺人)隠された真相(事故・自殺)の関係が機能せずに、ミスディレクションがあっけなく破綻してしまう。犯行声明を送ってくる殺人鬼が、なんで自分の犯罪を事故や自殺に見せかける必要があるのだろう、なんて余計なことを読者に考えさせてしまうのだ。
という訳で、このガチガチの型ということを念頭において、以下の文章を読んでいただきたい。
『母なる証明』は一部では大変な評判の映画で、おれも友人から是非是非と勧められていた。監督はボン・ジュノ、ただしおれは、『殺人の追憶』、『グエムル-漢江の怪物-』も見ていない。主演は韓国の母といわれる国民女優、キム・ヘジャとウォンビン。ウォンビンに関しても韓流のイケメン俳優という程度の知識しかない。いや、こうしたことも映画を見終わって知ったのね(ウォンビンの顔も知らなかった)。まっさらな状態でスクリーンの前に座ったと思いくだされ。
ああ、なるほどと思ったのは、三十分もたったころ。知的障害者であるトジュン(ウォンビン)が女子高校生殺人事件の容疑者として逮捕され、親一人子一人の母親(キム・ヘジャ)が息子の無実の罪を晴らすために奔走する。そういう映画なのね。
トジュンは犯行当日、酔ってその女子大生に声をかけた。しつこく後を追うと、女子高生は空き家に駆け込む。トジュンは立ち去ろうとしたが、背後から大きな石が投げつけられる。女子高生が家の中から投げたのだろう。立ちすくみ、怯えて立ち去るトジュン。
トジュンが知的障害者だから、訳もわからぬうちに強引に容疑者に仕立てられて収監される。というのはガチガチの型だ。これで、本来なら「お母さん、ボクはなにもしていないよ。でも、だれもボクの言うことを聞いてくれないんだ」と涙ながらに語るトジュンがいて、そして、例えば現場から立ち去る「幻の男」を見たなんてことになれば、その後の方針はスッキリしてくる。
でも、トジュンはあっさり(セパタクローキックで脅されたとはいえ)調書にサインしてしまうし、走り回る母親も一体何を目的にしているのかがさっぱり分からない。いや、観客に分からないのはいいのだ。登場人物がなにも分からぬまま走り回っていては、見ている方はイライラするばかり。
やがて、殺された女子高生が売春をしていたことが分かる。そして、持っていた携帯電話に「写っていてはならぬ人物」が写っていたことも。母親はさして苦労もせずに、女子高生の祖母からその携帯を手に入れる。
さあ、この先が凄い。母親から携帯の写真を見せられたトジュンは、ある一人の人物を指差した。これは意外なというか拍子抜けの人物で、以前ボロ傘を購ったことがあるホームレスの老人だった。老人の許を訪れた母親は衝撃の事実を告げられる。あの晩、その場を立ち去ろうとしたトジュンは直後女子高生から「馬鹿」と罵られ、かっとなって石を投げ返したのだ。その石が女子高生の頭を直撃して――温厚そうなトジュンが「馬鹿」という言葉にキレることは、その前に何度も描かれている。
母親は息子の殺人の目撃者である老人を殺し、その家に火をつける。そして、女子高校生の客の一人だった青年がシャツについた血液型の一致から逮捕され、真犯人とされる(女子高生は鼻血が出やすい体質――難病の前兆か――だった)。全くの冤罪だが、この青年も知的障害者のなのだ。
二人殺し、一人を無実の罪で裁かせる。しかし、この親子にとっては、万事めでたしめでたし。鍼灸師の母親は「忘却の壺」に鍼を打ち、狂喜乱舞して映画は終わる。
唖然茫然。
そうだったのか、おれはずっとこの映画をドンデン返しのミステリだと思って見ていたのだ。だから、ガチガチの型から外れて、『ホッグ連続殺人事件』みたいに失敗したと思った。しかし、全然そうじゃなかった。まさに『母なる証明』。自分の子供を守るためなら、他人なんてどうなってもいいという至極当たり前なのに、なかなか口に出しては言えないことを、ボン・ジュノはあっさり言ってのけたのである。
だけど。
母親に殺されたホームレスの老人は、なんで女子高生に写真を撮られていたのだろうか。客だったのか。いや、そうだとしても、母親に(当然、容疑者の母親であることは知らない)本当のことを話したと断言できるだろうか。老人が真犯人ならなおのこと。
オープニングとエンディングのダンスの物凄さ。
これは傑作だ。自分勝手な価値観のなんと爽快なことだろう。
ネットでは、ミステリとして評価する意見と、犯罪を容認する価値観を非難する意見が対立しているようだ。
しかし、これはミステリではない。映画は道徳の教科書ではない。
・
奇妙な暗合

昨日、平山夢明の『ダイナー』を読み終えた。そして、おや、こいつはちょっと面白い現象だな、と思ったのだ。平山夢明も新作が待ち遠しい作家の一人なんだが、この新作には、あんまり好きな言葉ではないが、いい意味で裏切られたからだ。

なにに裏切られたかを書くと、そのままネタばらしになってしまうので、詳しくは書けないが、冒頭の設定から想像したのとは全然違う展開が意外で、これまでの平山作品とはちょっと違っている。そして、そのことを面白いと思ったのは、この現象が11月12日のエントリで触れたジェフリー・ディーヴァーの『ソウル・コレクター』の遣り口によく似ていたからだった。資質も目指すものも、全く違う二人の作家が、新作で今までとは違った世界を構築しようとした、そうした“考え方”を具現化したものが同時期に現れるのには、偶然では片付けられないなにかがあるのではないか。
さて、前置きが長くなったが、『球体の蛇』である。いや、道尾秀介が、今までとは全く違った世界に挑戦したというわけではない。この物語は、むしろ多くの読者には、道尾の本流である、『ラットマン』的な世界の延長と受け止められたのではないのか。それは、間違いではない(「最新」「最高」と煽るのは少し違うと思うけど)。だが、読み終えて、おれには、ああ、やっぱりこっちの道を選んだのかという想いがあった。『ラットマン』が本格ミステリの枠の中で、ゾクゾクするような謎とどんでん返しをみせてくれたのに対し、ここで語られる「謎」はミステリの枠に納まらず、もっとずっと残酷な現実を描いていたからだ。現実は方程式を解くように、答を与えてはくれない。いや、答なんか最初から存在しないのかも知れない。
そこで翻弄される人間。道尾秀介がこれから先追求していくのは、そうした世界なのではないのか。
私事だが、やっと書き始めた新作、もう一度自分の“枠”を徹底的に追求して、こうした世の動き(そんなことを感じているのはおれだけかも知れないが)に思い切り逆らっていこうと思っている。
『球体の蛇』 道尾秀介 角川書店 2009
・
とびっきりのミステリ

おお。なんと言ったらいいのかしら。アームチェア・ディテクティヴではないし、日常の謎などという生温いものではない(思い切り世間を狭くするだろうが、おれは日常の謎というやつが大嫌いである)。うーん。なにしろ落語の噺の世界だから、勝手知ったる日常でもないし、そもそも謎らしきものも、あることはあるにせよ、「なんなんだろこれ?」と提示されるわけではない。なのに、「神田紅梅亭寄席物帳」シリーズ、この第三弾は大傑作なのだ。
日々是好日乎の10月12日のエントリで、著者の愛川晶さんが主宰された寄席に招待されたことを、自慢たらたら書いてしまった。『包丁』『厩火事』『うまや怪談』の三席をぼうっと聞いた挙句、「キャリーみたいな噺かも知れないと思い、ずっと警戒しながら聞いてました」なんて思い切り頭の悪い感想を述べてしまった。作者の愛川さんと演じた鈴々舎わか馬さんから、全く同じ「まさか、落語ではそんなことはしませんよ」というお答えをもらったのに、その意味も分からず、本当に馬鹿を曝しただけだった。あー恥ずかしい。
本書は、表題作と、『ねずみととらとねこ』『宮戸川四丁目』の二作を編んだ、連作中篇。最初に書きましたが、なんとも説明しがたいミステリーなのであります。前作『芝浜謎噺』の最終話『試酒試』が実は事件さえ起こらないミステリーではあったのですが、今回も事件らしき事件は起こらない。いや、事件が起こっていながら、それが顕在していないので、なんとなく歪んで見えてしまう状況を、落語を語ることで解決してみせるという、まさに奇跡的な名人芸。
『ねずみととらとねこ』は高座勝負というテーマを、その顕在していない事件を名探偵・馬春師匠が示唆し、主人公・福の助が演じ解決し、それを奥様が解説するという趣向。伏線が見事に効いているが、それよりなにより、ここで演じられる『ねずみ』の全く新しいサゲの見事さが、作品を上質のものにし、かつ作者の並々ならぬ造詣の深さを感じさせてくれるのです。
表題作『うまや怪談』ともなると、これはもう他の追随は許さない落語ミステリなのであります。なにしろ、久世光彦が、『一九三四年冬―乱歩』や『百閒先生 月を踏む』で見せた手法、つまり乱歩、百閒の作品を作内作として書き上げるという至難の業を、『うまや怪談』という新作を提示することでやってのけているのです。そして、10月の落語会で何故あの三席が演じられたかが、愚鈍な小生にもやっと理解できました。ここらへんは、ちょっと一般の読者とは違った感情の感想ですが。その噺が、微妙な縁談、学校の謎、そして、落語会での辛口評論家の厳しい目、総てを解決してしまうのですから、もう喝采しかありません。しかも、なんと福の助は、名探偵である師匠の手を借りずに解決してしまいます。これは新展開――と思わせておいて。
『宮戸川四丁目』では無視されてすねた馬春師匠に出禁を喰らい、福の助はご機嫌うかがいに出向きます。実はもう事件は起こっていて、これまた過去の因縁がうまく伏線になっている上に、突如響く三味線の音が、艶っぽいホラーになっているという趣向。しかも、最後の最後に、驚くべき展開となり、後は次回作のお楽しみ、お後がよろしいようでというのは、憎いばかりの構成です。
日常の事件すら起こらず、なのに本格ミステリであるという本作、本年の一押し。さらに落語好きならば至高の一冊でしょう。
『うまや怪談』 愛川晶 原書房 2009
・
ディーヴァーのやり口

『ウォッチメイカー』が多重ドンデン返しのデススパイラルに嵌っちまったような話だったから、今回はどんな展開になるのか、ディーバーのお手並み拝見と読み出したんだが。まさに、一読巻置く能わざるで、一気に読んでしまった。やっぱり、ディーバーも同じことを考えていたみたい。
ここからネタバレ ↓
大仕掛けなトリックを仕込むディーバーのいつものやり方とは違い、本作の構成は実にシンプルだし、ミスディレクションはいずれも小ネタ。そういう意味では、多重ドンデン返しを意識して読んだ読者は、まんまと一杯食わされることになるのだが、一般の評価はどうなんだろう。ネットの書評も、「地味」とか「プロットが弱い」なんていうものが散見される。これで多重ドンデン返しものだったら、「またか」という話になったろうから、読者なんて勝手なもんだ(作家のグチ)
ネタバレおしまい ↑
コンピュータが支配する社会の恐怖。なんて出し殻みたいなSFネタのようだが、スニーカー一足クレジットカードで買ったために、個人情報が丸裸にされる展開はかなりホラー。ディーヴァーは苦労して取材したのだろうが、アメリカでのネットの現実ってこんなもんなのかとニヤリとさせられる部分もある。
今回の犯人、“すべてを知る男”522号のプロファイルにこんなところがある。
・コンピューターに明るい。〈Our World〉を知っている。ほかのソーシャルネットワーキング・サービスも?
ソーシャルネットワーキング・サービスを知っているくらいで、コンピュータに明るいと看做されるなら、サイトとblogとmixiをやってるおれなんか、スペシャリストってことかね。それから、今回も登場するルーキー、ロナルド・プラスキー巡査が、SSDなるナレッジ・サービスプロバイダーから情報を盗み出そうとするときに、この若者が、エクセルもパワーポイントも知らないことが分かる。へえ! そんなものなのか。一番笑ったのは、ある架空の人物をでっち上げるエピソード。いろんなサイトにそいつの名前を書き込み、公式サイトまで造るのだが、そんなもん、データを見たらいつアップされたものか分かっちまうだろうにと思ったら、案の定“すべてを知る男”はあっさり見破る。当たり前だろっての。
本作では事件と並行して、リンカーン・ライムの青春時代の苦悩が明らかになっていく。これが随分とわざとらしい話だが面白い。そして、パム・ウィロビー(覚えてる?)が登場して、犯人捜査にからんでくる。もっとも、このエピソードちょっぴり、あの『ビューティー・キラー』を思わせるものがあるんだが。
ジェフリー・ディーヴァーも苦労しているんだなあと、せこい同業者はホッとした一作。
『ソウル・コレクター』 ジェフリー・ディーヴァー 池田真紀子訳 文藝春秋 2009
・
否、否! この見事なまでに計算された構図を見よ!

ふうむ。深水黎一郎はうまいなあ。
パリから東北東130キロの地、ランス。そこには世界三大聖堂の一つに列せられている、ランス大聖堂がある、物好きな観光客がこの聖堂を訪れる理由は、それがユネスコの世界遺産だからでも、歴代フランス王の戴冠式が行われた由緒ある建物だからでもない。彼らのお目当てはそこにあるシャガールのステンドグラスなのだ。
十月末の宵、一人の男が大聖堂の塔から落ちて死ぬ。現場に居合わせた刑事マルタンは81.5メートルの塔を駆け上り屋上に至ったが、途中階段ですれ違う者もいなければ、屋上に人影もなかった。しかし、目撃者の一人、浮浪者のオーギュストは、塔の上に天使の姿を見ていたのだ。そして、天使の姿を見たものは死ぬという言い伝えどおり、半年後、オーギュストはシャガールのステンドグラスの前で原因不明の死を遂げる。
しかし、この物語、件の二つの事件に事件性ありということで、コツコツと捜査される話なんかでは全然ない。舞台は現代日本に飛び、警視庁警部補海埜とその甥の瞬一郎の噛み合わないコントに延々付き合わされ、やっと瞬一郎がフランスで出くわした奇妙な殺人事件の話になる。そして、瞬一郎が書き起こした、その事件に関する手記を、海埜刑事が読み進める段になって、読者はその事件が冒頭の二つの怪死事件だと分る。
おれは基本的に、日本人の主人公が外国を舞台に活躍するお話が大嫌いである。そこに登場する作り物っぽい外国人たちには苦笑せざるを得ないし、主人公が金髪美女にもてたりしたらもういけません、読み続けることも出来なくなる。
そんな想いで読み進めるうちに、おれはこのランスという小さな街が段々気に入ってくる。学生寮も小さなレストランもピザ売りも、そして大聖堂も。夢に出てきた見知らぬ街に、後々まで愛着を覚えることがままあるが、そんな気分になってくるのだ。瞬一郎は事件について周囲の人間に話を聞いたり、警察に出かけてマルタン刑事と話したりして、そうしているうちに、あっさり二つ目の事件の犯人を見つけてしまう。動機は理解できるが、殺人方法は(伏線はしっかり張られているとはいえ)物理トリック。なんだかなあ、と思いながら、残り20ページくらいのところで、自殺と思われていた最初の事件の犯人が明かされる。これまた意外な犯人だが、こちらも、ちょいと首を傾げたくなる物理トリックだった。
これで終わり?
と思ったとき、ある人物の死が告げられ、瞬一郎はその葬儀に赴く。そして――
シャガールの黙示の意味が、ここでやっと明らかになる。それは確かに恐ろしい黙示だった(このことは注意深く読み直さないと見逃すかも知れない)。
そして、ちょっぴり苦い想いでこの話は終わる。おれはハッピーエンドのような気がしたが。
こうして僕は、十八歳の一箇月を過ごしたこの街に、今度こそ別れを告げた。この街は僕に、どんな笑顔の下にも、人間である限りは必ずや苦渋が隠れていることを教えてくれた。しかしもうこの街を訪れることは恐らくないだろう。あまりにもいろんなことがありすぎて、この街を歩くのはちょっと辛すぎる。
そうなんだよなあ。夢で見た街にも、二度といくことが出来ないように。
『花窗玻璃 シャガールの黙示』 深水黎一郎 講談社 2009
・
唐沢俊一が出演した、「『変な特撮』大復活祭」のイベントは、なかの芸能小劇場という、公共の施設で行われた。おれは、このイベントに関して、中野区の公共施設を管理している団体に、2度にわたってその不法性の疑義を呈してきたのだが、本日やっとその返事が来た(厳密にいうと、おれが問い合わせていた教育委員会に対して管理機関が送ってきた返事である)。
10月17日(土)なかの芸能小劇場の上映会で、お問い合わせいただいた件についてご報告いたします。
上映会の主催者様に連絡を取り、著作権がクリアされているか確認したところ、明確な回答を得ることはできませんでした。9月にも別件で、当指定管理者に同様のお問い合わせがあり、その際は、回答をいただくことができました。今回は、主催者様から、この問い合わせをしてきた者を明確にするのであれば回答を行うなどのやり取りがあり、個人情報に当たるため明かすことはできない旨お話をさせていただきました。その後も繰り返しお話させていただいておりますが、本日に至った段階でもご回答をいただけない状況です。今回については、主催者様から回答を得ることは難しいと考えます。
以上、よろしくお願いいたします。
おやおや。そんな質問をしてきたのは誰なのか、それを教えてくれたら答えよう、ですか。藤岡という人ですと返答したら、「あ、その人は、わたしの悪口をあちこちで広めているアンチです。そんな男のいうことなんか信じないで下さい」と答えるつもりだったのだろうか。しかし、イベントの正当性を答えるのに交換条件を出すとは、まさに語るに落ちるだね。無視された挙句に主催者様から回答を得ることは難しいと考えますとは、なんという杜撰な対応だろう。次回からは、もっと上位の機関に(この件も含めて)対応を期待することにする。
・
"子供だまし"というテクニック

第19回鮎川哲也賞受賞のミステリ。作者の相沢沙呼氏は授賞式で見事なマジックを披露してくれたが、この物語(連作短編)の主人公は、僕こと須川くんと同級生の不思議なマジシャン酉乃初(とりのはつ)。初は学校では目立たない存在なのに、サンドリヨンというレストランバーにマジシャンとして出演しているときは、全く別人格、明るい魅力を振りまく美少女に変身する。それを偶然にも見てしまった須川くんは、徐々に酉乃初に惹かれていく。
虐め、援助交際、売春、自殺。一見平和そうな学園には、ドロドロとした現実(しかも、紋切り型な)が渦巻いていて、須川くんも知らぬ間にそれに巻き込まれていく。
授賞式のとき、選考委員からの講評で、山田正紀さんがちょっと妙な発言をした。実はそれがパーティの間中気になっていたのだが、贈呈された受賞作に掲載されている講評でも同じ事を発言しているので引用する。
この作品はあまりにも達者すぎるし、完成されすぎていて、ここに探偵小説の未来を託すのは難しいかもしれない。~略~だが、完成されすぎているから、達者すぎるから、そのことをもってして受賞の妨げにする、というのではあまりにアン・フェアすぎるのではないだろうか。(太字は引用者)
アン・フェアもなにも酷い言い掛かりではないか。完成度が高いから将来性がないなんて評価されたら、おれだったら頭にくるだろう。ところが、である。
小説的な技術性は候補作中もっとも高い。
笠井潔の講評から(ただし、笠井は唯一人本作の受賞に反対した)。
虚心坦懐に読めば、最も巧いのは『午前零時のサンドリヨン』である。それは疑いようがない。高校を舞台にしながら、筆致から感じられるのは若さ以上にむしろ《老練》という言葉なのだ。~略~
その観点からいうと、『午前零時のサンドリヨン』はあまりにも、まとまり過ぎていた。
北村薫の講評から。
しかし文章の巧みさと、終始発散される吸引力の強さは、候補作中随一であった。若者たちの台詞だけでなく、地の文においても話し言葉調のニュアンスで読み手に語りかけ、そのこちらを呑んだふうの気配と、興味を引く要素を行く手に撒いていく匙加減、上手に興味をつないで、読書意欲を冷まさない技量は、老獪というほどのものがある。
島田荘司の講評から。
お分かりだろうか。本作を推した3人も、反対した笠井も、作者の技量は認めているのだ。しかも、笠井はそれをマイナス要因と捉え、島田、北村、山田もプラスと評価はせず、マイナスでは可哀想だといったニュアンスで語っている(引用部分だけからでは、そうは読めないかも知れないが)。
実際に読んでみて、4人の選考委員の気持ちがよく分った。因みにおれもこの4人とほぼ同世代である。ここがポイントね。
この小説はずるい。確かにミステリのトリックにもそれなりの技量は感じられるけど、作者が一番に力を入れているのは“子供だまし”なのだ。多分、十代の読者なら簡単に騙されるだろう。ひょっとしたら、二十代でも。
ドジで気弱な男の子が、謎のマジシャンや絶世の美少女たちに囲まれて、恐る恐る事件と向き合っているうちに(全く成長していないのにも関わらず)、次第に自分がイニシアチブを握って、女の子たちをリードし始める。そうなると典型的なツンデレストーリーで、タカピーの女子が自信を失って倒れそうなときに、須川くんはそれをしっかり抱きとめ、意外や、訥弁ながら適切な言葉を投げかけるのだ。
同じ立場にいる男の子が読んだら、ワクワクするような展開だろう。浅黒く日焼けし、白い歯を光らせたサッカー部のキャプテンが主人公だったら、本を叩きつけるような人たちには救いの手になるのだ。
でも、おれを含めたおっさんたちは、いかなテクニシャンの手になるものでも、もう騙されはしないのだ。イイ話ではあるけれど。
選考委員の皆様言う通り、その部分にテクニックを注入し過ぎなかった方が、ミステリとしてもっとずっと端正なものになったと思う。真実が明らかになって、ホロリとさせられる展開なのに、ダメ男の自分語りがしつこすぎて涙が乾いてしまった。惜しい。
『午前零時のサンドリヨン』 相沢沙呼 東京創元社 2009
・
唐沢俊一を擁護する
早めに入って、インタビュー案を練っていたら梶田興治監督が来られ、久闊を辞す。奥様を亡くされたそうだが、耳が多少お悪くなっていらっしゃる他はお元気で、スタイリストなことも変わらず。
2ちゃんねるで散々叩かれている裏モノ日記の文章だが、久闊を辞すというのは酷い間違いだね。久闊とは長のご無沙汰という意味だから、辞したってしょうがない。久闊を叙するが正しいことは既に2ちゃんでも指摘されている。一文字くらい誤字あったくらいで、と擁護されるむきもあるかも知れんが、唐沢は過去の日記でも何度か「久闊を辞す」と書いているから、「辞す」だと思い込んでいるのだろう。
で、問題は「スタイリスト」という言葉の使い方。
「自分のファッションに気を遣う人」のことをスタイリストと表現するのは間違いではない。少なくとも四十年ほど前までは一般的であった。この言葉には、気障といったニュアンスがあり、「カツラがばれて、スタイリストの彼にはショックだっただろう」なんて使われ方をした。それが、所謂「衣装・小道具」係みたいな意味で使われだしたのが、三十数年前。おれが広告業界に入ったのは三十三年前だが、このころ既にスタイリストは業界では一般的な存在だった。それが一般社会でも普通に使われる言葉になっていき、その流れの中で「ファッションに気を使う人」といった意味がだんだん失われていったのではないか。「BG → OL」「アベック → カップル」といった別の言葉に変化したわけでもないから、中年以上の人間なら大した抵抗もなく「スタイリスト」という言い方をするのは自然のことだ。
2ちゃんで「英語本来の意味」とか見当はずれな批判が飛び交っていたので、中年から一言。