ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

         三題噺 示現流幽霊(2011/05/25)



            神田紅梅亭寄席物帳



           三題噺 示現流幽霊

 
 愛川晶『神田紅梅亭寄席物帳』の第四弾。

 もはや自家薬籠中のものとなっている落語ミステリですが、なんたって今回の目玉は、六代目山桜亭馬春師匠の高座復帰であることはいうまでもないことです。短編三作の連作+特別篇というラインナップなら、当然、復活のクライマックスは第三作『鍋屋敷の怪』となるんでしょうが、表題は第二作の『三題噺 示現流幽霊』なので、もうここらから謎は提示されているんであります。

 第一作『多賀谷』は多賀谷さんのお話です。無論モトネタは「たが屋」。落語というよりも手品ネタですが、ダメダメ素人マジシャンが突如奇跡の技を見せるコインマジックが、実は次の『三題噺 示現流幽霊』の重要な伏線というのは、如何にも洒落の効いたお遊びです。
 で、『三題噺 示現流幽霊』は、薄々見当がつきましたが、これは前作『うまや怪談』同様の新作古典落語のお話ですね。愛川さんは、なんとこの自作を若手のホープ、柳家こせん師匠に演じてもらってるんですから、当然半端な出来じゃあありません。ま、野暮を承知で言わせてもらえれば、即興で演じる三題(三つのテーマ)である噺も、小説となれば作者が都合よく題を選べるのですから、その点の評価は厳しくはなります。「陰間茶屋」じゃなくて、「色茶屋」だったほうが冥途茶房ぽかったんじゃないかとか(すみません)。
 三作目『鍋屋敷の怪』はタイトルが曲者ですが、ここまでくれば、これが単なる「石返し」でないことは薄々予想は出来てしまいます。しかし、粋な趣向で復帰の高座が――と、あとは読んでのお楽しみ。
 そして、『特別篇』で「ひもの断ち」の真相が明かされるあたりで、やはりほろりとしちまいます。

 作中でしばしば地震が起こるのですが、あとがきに地震がらみのサプライズが用意されていますので、そこもお楽しみ。

 架空の馬春と実在の馬風がごっちゃになっちゃうのは、わたしの読み方が悪いからかしら。

 以前、「うまや怪談」をシリーズ最高作と書きましたが、今回、それは本作に更新されたと申しておきましょう。傑作です。

 『三題噺 示現流幽霊』 愛川晶 原書房 2011


    テルマエ・ロマエ 田中小実昌 つげ義春(2011/05/22)



            城之崎温泉酒乱の彷徨


 テルマ

  ただいま大人気の『テルマエ・ロマエ』の3巻の中で、著者のヤマザキマリさんが、こんなことを書いている。

 わたしの手元に、温泉を特集している1976年発行の雑誌「太陽」があります。沢山の著名人の方達が日本各地の温泉について手記を寄せている中に、作家の田中小実昌、漫画家のつげ義春、そして写真家の渡辺克己の三氏が城之崎温泉の温泉街で一緒に過ごしている様子を綴った記事が出ています。

 3巻の11、12、13章が、主人公ルシウス技師がローマ郊外に温泉街を造り上げるという話なので、それに因んだ文章なのだ。

 酔って前の晩の記憶が無いという田中小実昌さんの文は、読んでいると行間から饐えたアルコール臭が漂ってきますし、そこに添えられたつげ義春氏の味わい深い温泉街のイラストが、これまた素晴らしい。

               ~中略~

 温泉街というものが、いかに人間から表面的で窮屈な体裁を取り除いてくれる場所か、そこでハメを外さなかったら一生人間社会の中で緊張感に縛られて生きるしかないのだ(後略)


 なるほど。

 太陽は数年前、ごっそり処分してしまったので、田中、つげ両氏のエッセイをチェックしてみたら、そのときの記事が、見つかりました。『ふらふら記』田中小実昌(潮出版社)1979と『つげ義春とぼく』(晶文社)1977。ただし、つげさんはイラスト担当なので文章は書下ろしです。

 いや、笑えますね。

 だって、下戸で人見知りのつげ義春と、酒乱の田中小実昌の組み合わせなんですから。

 ホロ良い気分で、すっかりリラックスした田中版紀行と、緊張してくつろげないつげ版紀行の落差が甚だしい。

 田中さんは「狸御殿」なんて店が気に入って、芸者を引き連れて呑みまくり、カラオケをがなる。つげさんは嫌々付き合って、コーラ一本6000円とぼったくられる。しらふでコミさんに付き合うのも辛いだろうなあ。以下、つげ義春の著作から引用。


 すっかり上機嫌になった田中さんは冗談を連発するが、しらふで酔っぱらいの相手をするのはむつかしい。

              ~中略~

 田中さんの滅茶苦茶な騒ぎぶりには唖然となる。


 これなんの罰ゲーム? つげさんの憤懣やるかたない気分は、次の一文から読み取れる。

 雅喜さん(註:芸者)と腕を組んで歩き、いい気持ちになる。宿に戻る途中、田中さんが道にころがっていた(強調は引用者)


 いいじゃないか楽しけりゃあ、ってつげ義春、全然楽しそうじゃないなあ。

『テルマエ・ロマエ Ⅲ』 ヤマザキマリ エンターブレイン 2011


           カササギたちの四季(2011/05/18)




            カササギ


うーん。やっと読み終えることが出来ました。
 道尾さんご本人から、「今度出す本はミステリですよ」と伺っていたので、大いに期待していたのです。それが――

 この本を手にしたのは2月下旬、それからなんと3か月もたってしまったのには理由があります。『月と蟹』が直木賞を受賞し、つまりは受賞第一作になるわけですが、読み始めて感じたのは『カラスの親指』に共通する“優しい”雰囲気でした。なんか皮膚がぴりぴりするような作品が続いていたので、正直ほっとして、これは『花と流れ星』みたいな作品群なのかなとも思いました。

 ところが、冒頭の第一作、「鵲の橋」を読んで、一瞬「あ…・・・」と思ってしまったのですよ。発生する事件は、わたしが嫌いな「日常の謎」。しかし、物語の不思議な構造は、絶対何か企みがあるぞと感じさせるには充分なものでした。

 主人公日暮はリサイクルショップのリペアの達人。もっともビジネスの才覚となると甚だ頼りなく、高校の同級生で共同経営者の華紗々木が店の切り盛りをしています。さらに二人にまとわり付いている女の子、菜美という顔ぶれが、ちょっとした事件に巻き込まれて……。
 と書いたら、よくある話のようですが、お話はオヤオヤという風に展開していきます。天才的ひらめきを披露する華紗々木は、実は愚鈍な探偵役で、気弱な青年日暮くんこそが名探偵だったのですね。それを知らぬか、菜美は華紗々木に憧れている。しかも、事件は本当に解決されたのかも、実は曖昧なところが残されているのです。
 連作短編ミステリで、なんでこんなもって回った設定にするんだろう。まさか、「ミステリそのものが大したものではないので、周囲の味付けで物語を構成した」からじゃあるまいね、なんて無礼なことまで考えてしまう始末。

 ちょっと首を傾げながら、二作目の「蜩の川」を読み始めました。第一作同様に冒頭に登場する、黄豊寺住職の強欲な僧侶もレギュラーの登場人物だと分かり、そして、パターンどおりに華紗々木の的はずれな推理が開陳された後に、日暮くんが真相にせまり……。

 さて、ここでわたしはパタンと本を閉じましたね。これ、絶対なんか企んでるよ。だとしたら、惰性で全四作を読み通したら、大損してしまうのではないか。
 こんなミステリの読み方をしたのは初めてでした。わたしは、ミステリというのは「巻を措く能わず」と、余計な推理する暇もなく読み終えて、気持ちよくだまされるものだと思っていますから。あ、だから、「犯人当て」とか「読者への挑戦」というのも大嫌いなんですね。
 それが、作者はなにを企んでいるのかなんて真剣に考えたんですから、わたし的にはただごとではない。そして、この二つの短編を何度も読み直して、自分なりの解決を以って、残りの二作「南の絆」「橘の寺」を読了したのです。
 菜美がなんで二人と共にいるのかが分かり、住職の意外な素顔が分かり――いや、わたしの推理は大外れ。でも、やられたというのとはちょっと違います。そうか、こういうことだったのね。謎の仕掛け方が、いかにも道尾秀介らしい。

 泥棒とかインディーズのバンドとか、遊び心に溢れながら、なんとも憎い人間ドラマには、何度か泣かされてしまいました。
 そして、決まりの台詞。

「日暮さんがしっかりしないと、駄目じゃない」

 やっぱり、道尾秀介は凄いなあ。

『カササギたちの四季』 道尾秀介 光文社 2011


           似ッ非イ教室(2011/04/14)



              見逃していたホラー

              似ッ非イ教室


 まさか、清水義範がこんな物凄いことを書いているとは思わなかった。今回の原発事故が終息し、その総括がなされるなら、是非、清水氏にも取材してもらいたいところ。
 本書に収録されている『職業遍歴』という文章の中に、こんな一節があるのだ。P.138

 次にやったのは、民間の、被曝量測定所の所員であった。これは、原子力発電所の周辺の動植物の、放射線被曝量を検査測定するという会社で、自治体などから仕事を請負ってデータを提出するものである。
 本や草を、まずは真っ白な灰になるまで焼く。近海で獲れた魚介類も、灰になるまで焼く。その灰から、被曝量を測定するのだが、私には科学的なことは分からないから、ただその焼く係をするだけだった。魚などは三枚におろして、身と骨を別々に灰にしたりするのだ。毎日毎日いろんなものを灰にしているだけの仕事である。
 科学がわからないというのは強いもので、他の研究員たちが測定をしては、「ぎょっ」とか、「まさか……」とか、「こんな数字を秘密にしていていいのか」などと言っていても全く気にならず、のん気に働いていた。気楽な仕事だったので長く続けたかったが、他の所員がバタバタ白血病で亡くなってこの会社は解散してしまった。というわけで、また路頭に迷うことになった。


 本書には小説もエッセイもエッセイまがいの小説も収められているから、どこまで事実に沿った話なのかは不明だが、これが本当なら、恐ろしい話としか言いようがない。そして、おれは、こうした文章を「怖いねえ」とつぶやきながら読み飛ばしてきたのだな。
 こんなときこそ必読。

 『似ッ非ィ教室』 清水義範 講談社文庫 1997


          石原慎太郎について考える(2011/04/03)



               本日!

 4.3(日)紙の爆弾Presents 「紙の爆弾ナイト~石原慎太郎について考えたら、だんだん腹がたってきた~」で、オープニング・トークを行います。首都東京をこんな気違いに委ねていいのか。投票一週間前にもう一度考えようという主旨。


             東京物語(2011/02/16)



             演技力なんか要らない

             東京物語

 小津安二郎は老後の楽しみにとっておこうと考えていた。どうせ若い時に見たって、分からないだろうしと、今の今まで一本も観たことがなかった。それがどうやら、そろそろ老後ということで、小津作品を観始めたのだが。

 『晩春』『麦秋』と続けて観て、うむどうやら小津の遣り口が分かってきたぞという気分で、いよいよ最高傑作の誉れも高い本作を観たのである。

 うーん。ま、結論から言えば「素晴らしい」の一言なんだが、おれが一番感動したのは、技巧の物凄さだ。ミステリは造り物の最たるものだと思っているから、ドキュメンタリーとか社会派なんてものを、おれははなから認めない(ミステリに限っての話だよ)。そうした造り物凄さが小津作品には充満している。まずなんといっても、完全に型が出来上がっていることだ。全てをその型に嵌める。それで映画は八割方完成してしまう。
 冒頭は三作とも風景描写から始まる。特定の地を示すシンボリックな風景。『晩春』では二度ばかり、どこかの山の端と潅木から覗く枯れた立木のカットが登場するが、これを観ただけでおれなんか、ここが鎌倉だとピンと来る。それだけ、研ぎ澄まされたシンボルカットなのだな。家は純和風の仕舞屋。玄関の引き戸を開け、座敷に入れば洋服から着物に着替える。カメラが逆に振られると正面は台所。その左右のどちらかに二階に上がる階段があり、二階は私室。
 家事のシーンは正座して何かを畳む、畳む、畳む。洗濯物、旅行の準備、引越支度。とにかく畳む。卓袱台で食事をする。粗飯。おかずは一品か二品。お代りにもお茶にもお盆を使う。京都弁なら「お手盆」というところの、ああした手渡しはしない。
 カメラのカットは変われど、ちょっとパンするくらいで動かない。その替りカット変わりは目まぐるしい。向い合って話す二人は、常に正面のバストカットで捉えられ、「そうかな」「そうよ」「そうかなあ」なんて短い台詞にいちいちカットが変わる。
 その台詞も実に短く、役者によっては棒読みという印象。名台詞を滔々と語るといった演技は一切無い。
 この三本の映画主演はいづれも原節子。紀子という役名だが、設定に共通点こそあれ、全くの別人。表情は『晩春』では笑顔と睨みのみ。『麦秋』笑顔だけ。『東京物語』でも笑顔と泣き顔。特に『晩春』での笑顔の連続は、ちょっと不気味だ。父(笠智衆)の友人で最近再婚した男(三島雅夫)と小料理屋のカウンターに座って、「おじさま、不潔だわ」と満面の笑みを浮かべて言うところなど、尋常な演出ではない。
 この三本の映画で、演技らしい演技をしているのは、三本ともに出演している杉村春子と『麦秋』の淡島千景くらい。後は短い台詞の棒読みのばかり。そして、言い争いも怒鳴り声もない。
 役者の演技力なんか、おれの型に嵌めれば必要ないんだというのが、小津の想いなんだろうか。
 小津は60歳の誕生日に死去したから、丁度60年生きたことになる。その間に夥しい数の映画を撮り、今なお世界中から高い評価を得ている。海外では時代劇しか受けないだろうという、映画会社の偏見から積極的に海外に紹介されたわけでもないのにだ。週末、おれは60歳になる。小津に比べたら(比べるのもおこがましいが)なんて薄い人生なのかとも思ってしまう。
 でもね。この歳になったから言えることもある。それは結婚もせず子供も作らなかった小津には、ちょっと理解出来ない人生の機微があるってことだ。もっとも、そうしたものを、最初から切り捨てたからこそ、かえって家族や親子といった関係が明確に見えるようになったんだろうけれど。

『東京物語』は傑作だ。紀子(寡婦)の「わたしずるいんです」という台詞は陳腐だし格別の名台詞でもない。なのになんでこんなに心に響くのだろう。
 そうか。私生活で孤独だった小津は、寂しさだけは人一倍理解していたのだな。

『東京物語』1953年 松竹


             愛おしい骨(2011/01/11)



            煮え切らないんだって

           骨  


 うーん。
 なんと言えばいいのだろうか。
 こんな話。

  十七歳の兄と十五歳の弟。二人は森へ行き、戻ってきたのは兄ひとりだった。二十年ぶりに帰郷したオーレンを迎えたのは、時が止まったかのように偏執的に保たれた家。何者かが玄関先に、死んだ弟の骨をひとつひとつ置いてゆく。一見変わりなく元気そうな父は眠りのなかで歩き、死んだ母と会話している。何が起きているのか。次第に明らかになる町の人々の秘められた顔。迫力のストーリーテリングと卓越した人物造形。著者渾身の大作。
東京創元社のサイトから)

 主人公は兄であるオーレン。陸軍のCIDで優秀な犯罪捜査官だった。その地位を投げ打って(もうすぐ年金受得の資格が得られるのに)、「弟の死」を解明するために還ってきたのだ。わくわくするような設定ではないか。さらに登場する脇役たちのキャラが立ちまくりで、「幼女の頃から寄宿学校に入れられ、母親に捨てられたという思いを抱き続けてきた鳥類学者」「アルコールに溺れ、塔の部屋に半ば軟禁されている、その美しき母親」「天才児として育ち、あこがれの警察官になったのに、ある事件で障害者となってしまった大邸宅に暮らす男」「かつて期待された新人作家でありながら、ゴシップライターとなってしまった屈折した元小説家」「元判事で夢遊病に悩むオーレンの父」「怪物と呼ばれ、巨大な肉体を誇る凶暴な図書館司書」」「ホテル経営者の妻で、かつてオーレンを若いツバメにしていた熟年美女」「身元不明で抜群に頭の切れる家政婦」などという連中が活き活きと動きまわるのだ。
 多数の登場人物、複雑な人間関係、複数視点と、ちょっと間違ったらゴチャゴチャと混乱するだけの駄作になりそうだが、著者キャロル・オコンネルは驚異的な筆力で、ぐいぐいと物語を引っ張っていく。

 面白そうだよね。

 ところが、そうはいかない。それは主人公を始めとする登場人物が、どいつもこいつも「煮え切らない」からだ。オーレンなんか、真相解明のために帰還したんじゃなかったのか。ところが、何か事実が判明するたびに「躊躇」する。突っ込まない。読んでいていらいらする。そして、それは一癖も二癖もある他の登場人物にも共通する。
 多少、強引でも突っ走ってくれればいいのにと思うのだが、なんせ他者を傷付けるのが怖いらしく、真相の中心部をなかなか突こうとしないのだ。
 無論、最後に新犯人は逮捕され、真相も明らかになる。そして、これがまた拍子抜けするくらい当たり前な犯人で、当たり前な真相なのだ。いや、こんな解決であるなら、たとえ他の人物が犯人でも、全然意外な結末にはならないだろう。

 なんで、こんなになっちまったのかは、戸松淳矩さんが、ご自分のblogで精緻に分析している。なるほどと頷くことしきり。

 ラスト近くで真犯人を始め、バタバタと5人の死者が出るのも興ざめだし、ハッピーエンディングを予想させる終わり方だが、こんなヒステリー女と結婚して四人の子供を設けたら、この先地獄の日々だと思えるんだが。

『愛おしい骨』 キャロル・オコンネル 務台夏子訳 創元推理文庫


          アナモルフォシスの冥獣(2010/11/19)



                完敗

 こんなことを漫画でやられてしまっては、ミステリ作家はお手上げです。

                
            駕籠

 いや、その予兆はあったのだ。今年の3月に第三回世界バカミス☆アワード受賞した『フラクション』も既存のミステリをあざ笑うような傑作だった。しかし、おれは、たかを括っていたのね。確かに傑作だけど、これは漫画でしか使えないトリックだと(そこが凄いんだが)。

 新作、『アナモルフォシスの冥獣』で、駕籠真太郎は、またもや真正面からミステリに挑戦してきた。
 事故死した芸人の霊を呼び出すという降霊イベント。高額の賞金に惹かれた若者6人が集い、個々に部屋をあてがわれる。そこにある、広大なミニチュアセットの迷宮の中で、次々に起こる殺人は、悪夢のような不可能犯罪。まさに王道をゆく本格ミステリのパターンである。

 真相が明らかになったときに、おれは思わず「うわっ」と叫んだね。ミステリなら、叙述トリックというのか、本作は「視覚トリック」を縦横に駆使した奇想天外な、そして、驚くべき大トリックだったのだ。しかも、漫画だけではなく映像の世界に展開が出来る、いや、そうしたなら、さらなる衝撃を見る者に与えられるだろう。

 ミステリの映画化というものが、何故か情けない結果に終わるのに(『インシテミル』を見た友人が激怒していた)、これは大傑作になること間違いない。そうして、ミステリ作家が逆立ちしたって創造出来ない世界なのである。

 残酷でエロチックで、そして、壮大に恐ろしい。

 本年度ナンバー・ワン。

アナモルフォシスの冥獣』 駕籠真太郎 コアマガジン 2010


            催眠(2010/11/10)



            スウェーデン警察事情

上下

 スウェーデンのラーシュ・ケプレルという全く知らない作家が書いたミステリー。

 もっとも、ラーシュ・ケプレルは覆面作家。その正体は、アレクサンデル・アンドリルとアレクサンドラ・コエーリョ・アンドリル夫妻という純文学作家だというが、どちらにしろ全く存じ上げない。

 スウェーデンのミステリといったら、近年なら『ミレニアム』、過去にも ペール・ヴァールー、マイ・シューヴァルのマルティン・ベックシリーズといった傑作があるから、期待はいやがうえにも高まるのであります(因みに翻訳は『ミレニアム』シリーズのヘレンハルメ・美穂氏)。

 一家惨殺という酸鼻極まる事件が発生する。父親はスポーツセンターのロッカールームで滅多斬りにされ、留守宅では母親、次女、長男が血の海に沈んでいた。瀕死の長男はなんとか一命をとりとめたが、長女の姿はなく、犯人は長女を狙うに違いないと判断した刑事は、精神科医で催眠術のエキスパートである主人公に、長男から事件のあらましを聞き出せないかと依頼する。
 上下二冊の大著だがスラスラ読み進めるのは当然作者の筆力なせるわざ。しかし、日本の読者は戸惑い続けるのではないか。
 フィクションだという前提で話させてもらうが、スウェーデン警察の酷さたるや、こりゃあ、全員懲戒免職だろうというレベルのもの。
 なんせ催眠術の使用は一刑事の独断。おかげで主人公はその後社会的に糾弾されてしまう。現場検証もおざなり、司法解剖も主人公に言われて始める始末。瀕死の長男が病院を脱出するのも止められない。
 いや、実は、主人公は催眠術を封印していたという経緯があるのだ(だから、その禁を破ったことで糾弾された)。しかし、そのときやはり問題になった催眠治療の杜撰さは呆れるばかり(そのせいで、別の事件が発生する)。さらに(しつこいね)、警官は簡単に殴り倒され、拘束され、殺される。退職した警官が拳銃片手に警察を名乗って、独自捜査を開始してしまうのもなあ。
 なんかタガが緩んだような捜査が進んでいくうちに、過去の事件の真相が明らかになり……。
 しばしば、浦沢直樹的な事物があり(冒頭の事件なんか、誰もがそう感じるだろう)、ポケモンが重要な要素だったり(重要人物の名称が“ホエルオー”)、日本人ならニヤリとするところもあるのに、実は、日本人だったら、絶対こんな書き方はしないだろうというストーリー展開。
 日本人ではないが、例えば「フロストシリーズ」なんかがいい例だ。細々とした事件が同時に発生し、それが本来の事件に関係があったりなかったりの、凄まじいミスディレクションに翻弄されるのだが、本書の場合、それが一本道を進んでいくだけなのね。有機的に絡み合ってこない。だから、最後に真犯人と対決するときも、その犯人だって当初の事件犯人ではない。そう、最初の事件は、もうどうでもよくなってしまっていて……。
 一応意外な展開で、事件は解決する。ラストは、ハラハラドキドキだが、最初の事件とは、なんの関係もない展開なのだ。うーん。

 以前も書いたけど、ジョン・ハートの『川は静かに流れ』東野さやか訳、一人称を僕と訳すのが、みょうに軽くていやだったのだが、今回の一人称も「ぼく」なんだよね。これって、大分印象を安っぽくしてるんじゃないかね。

『催眠 上・下』 ラーシュ・ケプレル  ヘレンハルメ・美穂 訳 ハヤカワミステリ文庫 2010


         セカンド・ラブ(2010/10/23)



          彼女は無慈悲な女教皇

 またKOされた。それも、ボディ・ブローで。

          セカンドラブ

 本作、amazonに発注して未読のとき、鮎川賞のパーティで、作者の乾くるみさんに出会った。「買ったけど、未だ読んでないんです」と話したら、「読んだら怒りますよ」と返ってきた。おお、なんか、佐野洋の『推理日記』みたいでカッコいいな。
 で、読んだわけでありますが、怒るなんてとんでもない、腰巻の惹句「イニシエーション・ラブの衝撃再び」に偽りはなく、最後の一撃にガーンとなりましたぜ。
 主人公、里谷正明は木工所に勤める高卒の童貞くん。といっても、天涯孤独で自立している「靭(つよ)い男」、しかも浜松北高を卒業しているから、頭もいいようだ。ってのが、いかにも静岡出身の乾さんらしい。静岡ではどこの高校(大学ではないぞ)を卒業しているかが、即、人物の評価になる。浜北と静高(静岡高校)がステイタス。
 閑話休題。
 ガールフレンドとスキーに行く職場の先輩が、正明を誘うのだが、二人の世界に闖入したらお邪魔でしょうと遠慮する正明に、先輩はガールフレンドの女友達も一緒だと、なんか期待させることを言うのだった。そして、出かけてみれば、この内田春香という女友達ってのが、一流大学の院生で、超美貌という絵に描いたようなお嬢様。二人はすぐに、イイ感じとなるのだが、そこは乾ミステリー、そのままめでたしめでたしになりっこないのは、読者は百も承知と読み進める。
 正明と春香はますますいい感じの関係になっていくのだが、ある時、正明は偶然、春香そっくりのホステス、ミナ(美奈子)に出会う。そして、美奈子は自ら春香の双子の妹だと告白するのだ。運転免許証も見せられて、なるほどこの娘は半井美奈子、内田春香とは別人だと、正明も納得する。
 さあ、ここから、何事も起こらぬようで、不幸フラグがあちこちに立ち始める。上手くいっているはずの春香の口から、なんか違和感のある言葉が飛び出したり、スキーにいった先輩がミナにアタックをかけたり。
 衝撃の事実が判明した後、舞台は、新婚旅行に出で立つ飛行場になる。
 そして――
 最後の最後に、春香を見守っていた正明が、トンデモない行動に出る。
 うっわー!

 いやもう、目の前がまっ暗というかまっ白というか。
 苦い余韻の中、読者はぶっ倒れるのでありますね。
 凄いなあ。

 しかし、『スリープ』といい本書といい、この乙女チックな装丁はなんなのだ。著者名が乾くるみでピンクの文字なんか並べて、無知な子女を謀ろうとしているのか。乾くるみは髭面の中年男(しかも最近は急に太った)なんだぞ。←営業妨害じゃないよ。
 こっちの方が衝撃の事実だったりして。

 ※英語表記のタイトル、“The High Priestess”は、タロットカード「女教皇」のこと。
 
『セカンド・ラブ』 乾くるみ 文藝春秋 2010

※日下三蔵氏から、第一章を読み間違えているとの指摘を受けました。再読して赤面の至りです。当該部分は削除しました。


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