このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
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ずうっと昔のいつかの夜に

傑作。
本当に、恒川光太郎は面白い。「マジックリアリズムの傑作」なんて惹句が添えられているけれど、そんな言葉では到底この物語の物凄さは伝えきれないだろう。
少年時代鎌倉で過ごしたので、おれは夜の海というものに簡単には説明できないような思い入れがある。海は未知の時空へ誘う巨大な入り口でもあったし、街とも山とも違う人知の及ばない世界への入り口でもあった。真夏、縁日の夜、砂浜には数々のテントが張られた。移動遊園地、サーカス、蝋人形館、鏡の迷路、いくら遊んでも遊びきれず、ついにたどり着けない電飾も眩いテントが、砂浜の彼方まで続いていた。いや、むろん、由比ガ浜の狭っ苦しい海岸で、そんな広大なカーニバルが催されていたはずもなく、それは単に幼い目に何倍にも何十倍にも拡大された幻の風景だったのだろう。
本書で紹介される、七編の連作短編(これまた、道尾秀介の『光媒の蝶』みたいに長編の各章なのかも知れない)は、しかし、そんな派手な真夏の夜の夢を描いたものではない。しかし、どんより暗い夜の海の、濃密な潮の香りを感じさせる物語なのだ。
表題作『南の子供が夜いくところ』は、湘南海岸をドライブする男の回想から始まる。ワーゲンのマイクロバスの屋台の客である親子三人は、一家心中を見咎められ、三人ばらばらに未知の知に送り込まれる。現代日本の現実から、巫女に導かれトロンバス島に送り込まれた子供のタカシは――。
続く『紫焔樹の島』では、魔物に守られた島に流れ着いた白人と島の少女との交流、島を支配しようとする暴漢たちと疫病による滅亡までの悲劇を描き、その少女の正体が明らかになることで、この連作の傾向が自ずと明らかになってくる。うってかわって『十字路のピンクの廟』はタカシの友達ロブにまつわる、捻りの効いた御伽噺。『雲の眠る海』では現実と幻想が交差し、トロンバス島が時空を越えた地にあることが暗示される。そして、『蛸漁師』では残酷な現実犯罪の世界に悪魔ヤニューを登場させ、そこから派生する皮肉な運命を描いてみせる。『まどろみのティエルさん』では、タカシを不思議の世界の住人として描き、読む者をほろりとさせ、そして、最終話『夜の果樹園』では、斬新なスプラッタ小説の展開から、タカシの父ケイタがタカシを迎えに来ることを暗示させる。
どのお話にも、ずっとずっと以前、夢で見たような懐かしさがある。具体的なストーリーなんか全然覚えていなくとも、眩い電飾濃密な潮の香のように、感性を直接揺さぶるなにかがあるのだ。そう、そうしたおぼろげな記憶のように、七編の短編、広大な大河小説のさわりのような趣がある。
恒川光太郎恐るべし。
『南の子供が夜いくところ』 恒川光太郎 角川書店 2010
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生きていくということは

面白い。
いや、確かに面白い小説だけど、おれが面白かったのは、この小説の構造だ。
昨今のベストセラーには、とにかく闇雲に読者を感激(感動?)させてやろうという、作者のあざとい作為見え見えのものが散見される。『光に向かって100の花束』とか『世界の中心で愛を叫ぶ』とかさ。感激したい、感涙に咽びたいという読者のリクエストに見事応えましょうというわけだ。そういった読者には、本作は感動・感涙連作短編と読めるだろう。おれもジーンときた口だけど。
しかし、おれがこの作品に感動したのはもっと別の意味、つまり構造なのね。6編の連作(著者は長編と言っているが)、先の3作と後の3作、作品のトーンがガラリと変わる。悲惨な事件が続いた後、救いの光が差し込んでくる。こうした構造の意味を、著者は淡々とインタビューで答えているし、確かにその通りなのだろうが、おれはこの6作(3作+3作)のトーンが変化しながら、そこから受ける印象に全く変わりが無いことに驚いたのだ。
最近、「言葉の持つ意味」ということちょっと考えるようになってきた。この作品で言うなら、今まで安易に「良心の呵責」とか「トラウマ」とか「反抗」とか使ってきた言葉が、とてつもなく無意味に思えるのだ。殺人を犯し、それが別の死を引き起こしながら、居直るでもなく後悔の念にかられるでもなく、黙々と人生を消費する生き方。凡百の作者なら、「十字架」とか「償い」なんて言葉で描写するだろうに。不幸・不運、それに対する幸福・幸運、それは等しく人生に満ちているもの。ある時点でそれを切り取り、嘆いたり笑ったりしながらおれたちは生きているのではないか。いや、死なない限り、そうする以外になにが出来るだろう。
『球体の蛇』で著者はミステリーの枠から抜け出してきた。そうして、本作では、残酷な人生の、残酷なればこその悲哀と愉悦を、こんな形で提示してくれた。
凄いと思えば思うほど、もうミステリーはかかないのかしらと寂しくも思えてしまう。
『光媒の花』 道尾秀介 集英社 2010
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傑作、だが

梓崎優(しざきゆう)の連作短編集。傑作である。だが。
この作品集を傑作と言い切れるのは、『砂漠を走る船の道』『凍えるルーシー』の二編が収録されているからである。もうそれでお釣がくるくらいと言いたいのだが、問題はそのお釣である。
順番に評す。
『砂漠を走る船の道』は第五回ミステリーズ新人賞受賞作。選考委員に絶賛されての受賞だが、それも当然と言っていい、チェスタトンを髣髴とさせる本格ミステリの傑作である。続いて『ミステリーズ!』に発表された『凍えるルーシー』は作風をがらりと変えたホラーミステリ。精緻な推理が展開されながら、ラストには悲鳴を上げそうな恐怖が待っている。これが凄い。ゾッとするといった類のものではない。真の恐怖。
この二作には圧倒された。そして、作者梓崎の豊かな才能の可能性に期待充分で、本書を手に取ったのだ。
正直に言わせていただくなら、書下ろしで本書に収録された『白い巨人』『叫び』『祈り』の三作にはさほど感心しなかった。既読二作の桁外れの出来映えに比べたら、これは余りに普通のミステリではなかろうか。
『白い巨人』
真夏のスペインの描写が素晴らしい。ここに叙述トリックと密室からの人間消失に関する推理合戦、そして、甘酸っぱいユーモアが効いたオチが用意されているのだから、欲張りすぎといってもいい作品なのだが。人間消失に関しては、泡坂妻夫に『凶漢消失』という大傑作がある。あれを超えられなければ、このテーマはかなり苦しいと思う。しかも、最後に語られる真実は……。
先日読んだ『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』と、あの『六とん』を思い出しちまった。そうか、これはバカミスなのか。
『叫び』
事情に暗い秘境での閉鎖空間の中で発生する連続殺人。これは『砂漠を走る船の道』と同じ設定の話である。さらに、『砂漠――』では砂嵐をはじめとする危機が、本作ではエボラ出血熱という死病が迫ってきているところも同様の趣向だ。しかし、『砂漠――』では、そんな中で発生する殺人の動機が見事に説明され、そのホワイダニットが全編を覆うトリックになっているのに比べ、本作の動機は、作中で伏線として語られているとはいえ、「こうした考え方をするのがこの地では一般的なのだ」ということを一方的に受け入れなければならないものなので、最後まで納得はいかない。
『祈り』
連作のラストをどう締めるか、ということに徹した内容で、作者の潔さには敬服する。しかし、四作を読み終えて本作を読めば、さすがに叙述トリックも品切れといった感は拭えない。
収録された五作、大傑作が二作と平均的な三作だから、冒頭述べたように充分にお釣のくる作品集である。
『叫びと祈り』 梓崎優 創元ミステリフロンティア 2010
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究極のテクニック

本書の後半で、この不気味な“尖塔”を持つ二つの館、黒鳥館、白鳥館の正体が明かされたときに、思わず、「上手いなあ」とつぶやいてしまった。人によっては「畜生! やられた!」かも知れないし、「なんだ、これは! 怪しからん!」かも知れないが、おれのように日頃から読者を騙すことだけ考えている人間にとっての正直な感想は「上手いなあ」なんでありますね。
物語はもうガチガチの館物ミステリ。死亡フラグ立ちっぱなしで、そして、期待に違わず、どんどん殺人事件が起こる。
三浦半島、三崎町、霊峰富士を遠くに臨み、断崖を挟んで建つ二つの館、黒鳥館と白鳥館。おお、如何にも、ばたばたと人が殺されそうな設定ではありませんか。
大学のサークルの学生が、招待状を貰って、三崎町の黒鳥館を訪ねるところからスタートするお話は、しかし、読み進むにつれて、いらいらするような違和感に囚われていく。定番のストーリーなのに、どこかがおかしい。ウエルカムドリンクが給せられるのだが、シャンパンではなく、怪しい液体であり、館そのものの構造も、恐ろしくシンプルで果たしてこれが館なのかと思えてしまう。いやね。大体、見ず知らずの相手から、一人で、真夜中の黒鳥館にお出でくださいなんて招待状を貰って、誰が、のこのこ三崎町までいくかしら。しかも、招待状には「豪華景品を差し上げます」と書かれているのだ。しかし、本書の登場人物は、男も女も、さして労とは思わないらしく、皆、館を訪れて殺されてしまう。なんだかなあ、と思っていたら……。
190ページの本書、134ページで、あっさりと館の正体が明かされる。いやはや、本当に上手いなあと思いました。それまで抱いていた違和感が、その瞬間に総て吹き飛んでしまう。しかも、本書全体に仕掛けられたトリックは、じつはもっとずっと壮大で、ここまで技巧に凝った小説は他にないんじゃないか知らん。
提示される事件と現実の真相の落差といったら、これはもうファンタジーの世界です。
実は、世界バカミス☆アワードの二次会で、おれは、サインを貰ったばかりの、駕籠真太郎さんの『フラクション』パラパラやりながら、「ほらね、もう、なにからなにまでが伏線になっているんですよ。しかも、これは小説では絶対に出来ないことなんだ」と、自分の手柄みたいに話していたのね。そのとき、すぐ横に座って、ミーコ姫を肩に乗せ、ニコニコ笑いながら、作者の倉阪鬼一郎さんはその話を聞いていたのだ。
(ふふふふ、おれの本を読んだら、もっと驚くぜ)
そうおっしゃりたかったんだろうなあ。
これこそ、
「なにからなにまでが伏線になっていて、しかも、マンガでは絶対に出来ない小説」
なんであります。
『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』
倉阪鬼一郎 講談社 2009
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書き下ろし叙述トリックマンガ

第三回世界バカミス☆アワード受賞作。
前代未聞とはこのことだろう。マンガというメディアを駆使して「伏線」を極限まで張りまくる。しかも、作者自身が登場して、謎解きに参加してくるのだ。再読すれば、この伏線が、伏線どころが真相――解決編が本編になっていることが分かる。だからといって、画力ではなく説明文で成り立っているのではない。一枚の画が持つ力というものを、改めて思い知らされた。
巻末(巻中だが、後半は短編集なので、『フラクション』の巻末である)霞流一との対談は、実は霞氏がゲラを読んだだけで、結末を知らぬままに行われた(霞氏本人がそう言っている)。そして、「叙述トリックっぽい感じ」と看破しているのだが、審査会の席上で「最後まで読んでいたら、とてもこんなこと引き受けなかった」と心情を吐露していた。それは充分に理解できる。
物語は「連続輪切り魔(秀逸なネーミング!)」事件が発生している世田谷を舞台に展開する。なんかトラウマを抱えているっぽい青年が、勤め先の喫茶店で店員たちと事件の話をするのだが、これはもうあからさまに怪しい展開で、案の定こいつが「輪切り魔」だった(註;ネタバレではありません)。関係ないけど、輪切りってイカリングみたいに切ることなんじゃないのかな。この犯人は両断するだけ。勤務終了後、さっそく次の被害者を物色、手際よく輪切りにしてしまう。
ところが、模倣犯が現れて、被害者のタイプも微妙に違う。誰かの罠かと、犯人は考えるのだが。模倣犯の正体が分からぬまま、喫茶店の同僚店員の女性、店長が次々に輪切りにされて――
ここで、唐突に、作者の駕籠真太郎が登場し、女性編集者を相手に、マンガの特性を解説し始める。(ここからネタバレ)実はこの解説がそのまま事件の真相の解決編になっている。自作中に仕掛けられた数々の叙述トリックを懇切丁寧に説明していくのだが、それを真相に結びつけて読んだ読者は皆無だろう。ことほど左様に、この仕掛けは大成功しているのだ。(ここまで)
しかし、これは全く私的な想いなんだが、あの京極夏彦の『姑獲鳥の夏』、初読のとき、てっきりこうしたトリックなんだろうと勘違いしたことがあったので、思わずぞっとした。マンガだったら、おれ的なオチもOKだったんだよな。
おれは、最後に京極堂が関口に「人間とはありもしないものを見るかと思えば、そこに在るものが見えないこともあるのだ。たとえば、きみの足下に転がっている死体が、きみにはずっと見えていなかった」と解説すると思っていた。オチがなかったのは拍子抜けだったが、『フラクション』では駕籠真太郎が、そのパターンを完成してくれたわけだ。
マンガでしか実現できない世界。そして、あらゆる叙述トリックを凌駕した大トリック。駕籠真太郎恐るべし。
『フラクション』 駕籠真太郎 コアマガジン 2009
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気違い知事から、表現の自由を取り戻そう
すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、2月24日に、東京都青少年健全育成条例の改正案が出され、その中に、「非実在青少年」(つまり実写でなく、マンガ・アニメ・ゲームに出てくる青少年)への規制が盛り込まれています。
これは、 「年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの」と規定されており、つまり設定が18才以上になっていても、「18歳以下に見えれば」ダメ、ということです。
つまり、国の方で何度も改正(改悪)が話題に上りながらも、反対が多く先に進まないでいる「児童ポルノ法」における、「単純所持規制」(=とくに売買する意思を持っていなくとも、「児童ポルノにあたるもの」を単純に「持っている」だけで逮捕)、「マンガ・アニメ・ゲームその他、画像として描かれる青少年の姿にも児童ポルノ法を適用する」というもくろみを、都の条例で先に決め、規制してしまおうという法律です。
なので、今のところ罰則はありませんが、「単純所持」も禁止されています。
おまけに、上記に規定された意味での「児童ポルノ」(つまり非実在青少年を含む)の根絶に向けて努力し、都に協力するのが「都民の義務」と規定されています。
第十八条の六の四 何人も、児童ポルノをみだりに所持しない責務を有する。
2 都民は、都が実施する児童ポルノの根絶に関する施策に協力するように努めるものとする。
3 都民は、青少年をみだりに性的対象として扱う風潮を助長すべきでないことについて理解を深め、青少年性的視覚描写物が青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害するおそれがあることに留意し、青少年が容易にこれを閲覧又は観覧することのないように努めるものとする。
これだけ読むと、青少年が読まないよう留意すればいいのかと思うかもしれませんが、成人が読むものもすべて、規制の対象になります。
都条例の改正案の全文は以下で読めます。
このうち、後半の、とくに赤で反転してあるところが重要な部分です。
http://fr-toen.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-cbc1.html
また、今日、いままさに行われている緊急集会のお知らせ
http://icc-japan.blogspot.com/2010/02/blog-post_27.html
も含め、この問題に関する基本情報をまとめたサイトは以下です。
http://mitb.bufsiz.jp/
「18歳以下に見える」とか、「不健全」とか、いくらでも恣意的に解釈できる条文の上に、これらの規制を推進しようとする都に対し、全面的に協力するのが「都民の義務」とするなど、これは戦前戦中のファシズムか? 「非国民」!とどこが違うの? と言いたくなるくらい問題のある法律なのですが、問題は、
今の状況だとほぼ間違いなく、この法律は通ってしまう!
ということです。
そして、出版社のほとんどすべてが東京に集中している中で、この法律が通ることは、国の法律ができたのと同じ効果を持ちます。
にもかかわらず、不思議なことに、ネットでも、マイミクさんの日記やMLでも、この問題はほとんどまともには話題になっていません。おそらく、あまりにもばかばかしい規定ゆえに「半笑い」的なコメントが多く、みんな「こんなばかばかしい規定、通るはずない、と思っているのだと思います。なぜかネットでも、個人のブログや痛いニュース以外に、信頼できるとされる一般メディア(新聞系のニュースなど)でこれを取り上げているところはないし、新聞でも報道されていないので、みんな冗談だと思っているのだと思います。
けれど、繰り返しますが、
今の状況だとほぼ間違いなく、この法律は通ってしまう!
2月24日に案が発表されて、都民が意見が言えるのは25日まで(つまり1日だけ)。
議会での質問が許されるのは3月4日(代表質問)・5日(一般質問)だけで、これも数日前には質問を提出していなければならない。(つまり議員でさえ、検討できるのは3日程度)
で、18日の13:00の付託議案審査がもっとも重要で、今月末には投票、決定、ということになります。
現在、都議会の会派は石原都政与党(自民、公明、平成維新の会)が62議席、石原都政野党(民主、生活者ネットワーク、共産、自治市民)が65議席という構成です。
野党が全員反対にまわれば、否決できるのですが、今のところ、民主党内ですら、意見統一がとれていない。知人によれば、
①都議では野党の民主議員が全部法案可決に反対しても過半数に満たず、
民主自体もきれいに可決反対で意見がまとまっているわけではない。
②今回はこの法案はケイタイ・ネットに関する法案とセットで提出されており、
このケイタイ・ネット関係の法案はちょっと現段階ではあまりに穴がありすぎ、ほぼ通らない
ということになっていて、それが災いする可能性も高い。つまり二つあげたもののうち二つともが
否決されることは珍しく、ひとつを通さない代わりにひとつを通すということは議会ではよくある。
こうしたことから、この法案は何もしないでいると通る可能性が高いだろう」
ということです。
けれど、先日、もう賛成を決めているからダメだろう…と言われていた、「生活者ネットワーク」の議員さんにヤマダさんたちと一緒にお話をしに行ってきたら、ちゃんと聞いてもらえた、という感触を持ちました。そして、この法案の危険性を訴えたのが、ほぼ私たちが初めてのようだったのが印象的でした。
都議の方たちも、あまりにも現場から何も反対の声が上がってこないので、不思議に思う状況のようです。現場から反対の声があがらないとどうしようもない、との声も聞かれました。
私もあまりにみんな騒いでいないので、半信半疑だったのですが、各方面に確かめても、「このままだと通る」ことは確実です。
まだ間に合うかもしれません。広報の手段を持っている方は、この法案の危険性を、早く、広く、伝えていただければと思います。
出典
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1430946730&owner_id=160185
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いってきましたよ
というわけで、第三回世界バカミス☆アワードの選考会、表彰式、パーティにいってまいりました。

壇上のメンバーは、左から
杉江松恋さん、日下三蔵さん、倉阪鬼一郎さん、駕籠真太郎さん、川出正樹さん、小山正さん。さらに、ゲスト審査員として、霞流一さん、新保博久さん、鳥飼否宇さん、日暮雅通さん、宮脇孝雄さんという豪華な顔ぶれ。客席には千澤のり子さん、千街晶之さんの顔も。
今回、最終候補に残ったのは、
ドゥエイン・スウィアジンスキー『解雇手当』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
ジョシュ・バゼル『死神を葬れ』(新潮文庫)
飴村行『粘膜蜥蜴』(角川ホラー文庫)
マット・ラフ『バッド・モンキーズ』(文藝春秋)
駕籠真太郎『フラクション』(コアマガジン)
倉阪鬼一郎『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』(講談社ノベルス)
これまた、濃いラインナップですねえ。
もう、お聞き及びの方もあろうかと思いますが、本年度は『フラクション』と『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』の二作が同時受賞とあいなりました。おめでとうございます。

場を移して行われたパーティ会場にて。左・駕籠真太郎さん、右・倉阪鬼一郎さん。
両受賞者、霞流一さん、鳥飼否宇さん、千澤のり子さんともお話させていただきました。特に、駕籠真太郎さん、『倒壊』という作品にトンベリが出てくるので、ひょっとしたら、
「FFファンなんですか?」
とお訊ねしたら、大当たり。30分くらい二人で、FFの話をしちまいました。7と10が好きで、10はインターナショナル版までやったとか(おれもだ)、13やりたいんだが、そうすると漫画を描く時間がなくなるので我慢してるとか。それに、バイオハザードも好きだがドラクエはやったことがないそうで、趣味が一致いたしました。
皆さん、二次会、三次会とさらに呑んだとか。お元気ですねえ。

『フラクション』 駕籠真太郎 コアマガジン 2009

『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』 倉阪鬼一郎 講談社 2009
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ぽかぽか陽気の散歩読書

川本三郎の新刊である。
おれの中で川本の評価というのは、時とともに随分変わったなあ。<『脇役グラフィティ』や『スキ・スキ・バン・バン』の時代は、映画に詳しい兄ちゃん程度の認識だったが、都立青山高校時代、全共闘だった同僚から、あの自衛隊員刺殺事件の顛末を聞いたときは、良くも悪くも世間知らずの坊ちゃんなのだなあと思ったりもした。映画評論では、駄作『血と骨』をベタ褒めしたりして、見限ってしまったのだが、あの大著『荷風と東京「断腸亭日乗」私註』には打ちのめされ、町歩きの達人として、仰ぎ見る存在となった。
『きのふの東京、けふの東京』(平凡社)は、その達人の技が充分に味わえる傑作。赤坂の書店で購い、赤坂 → 保谷の地下鉄で、280頁をあっと言う間に読んでしまった。ずっと酒はたしなむ程度の方かとも思っていたのに、ビール主義ではあるものの、四つ木の「ゑびす」なんかをしっかり抑えていて、文字通り足を使って得た情報は本物だよなあと感激した。感激したが、ああ、勿体無い。もっと、ゆっくり読めばよかった。

そんなわけで、昨日は久しぶりに『東京の空の下、今日も町歩き』(講談社 2003)を読み返してみた。昨年保谷に引っ越してきたので、練馬周辺をたどり直すのもよいかなと閲していたら、こんな一文にぶち当たった。P.103
東上線に乗ってときわ台にもどる。
実は、昼にここを歩いた時に、いい店を見つけておいた。駅に接したそば屋である。立ち食いそば屋を少し大きくしたような、変りばえのしない店だが、夜は、居酒屋になる。
外から覗くと、壁に品書きが沢山張ってあるのが気に入った。いい居酒屋の条件は「品書きが多いこと」と決めている。なかに入るとテーブル席が十足らず。どの席も勤め帰りのサラリーマンでいっぱい。なんとかつめて、もぐりこませてもらう。
どうです。そそるでしょう。しかし、ときわ台にこんな店あったかしら。ときわ台周辺なんかどのくらい歩いたか分からないくらい。おかしいなあ、と思いつつ、早速地下鉄を小竹向原で降りて、ときわ台を目指して歩く。「駅に接した」とあるから迷うこともあるまいと、30分も歩き、いよいよときわ台が近付いてきたとき、突如、あっと思い当たった。
そうか。あの店のことか。川本の文章から、古風な木造家屋、厨房の窓からは線路が見える荒屋(あばらや)を想像しちまったんだが、全然違うのね。そう、改札を出て直ぐ右にある小奇麗な店だ。あそこなら、何十回もいってるじゃないか。
そうそう、この店。大分、文章の印象と違うよね。

あづま家。
ん。店頭が随分こざっぱりしてるな。暖簾も出ておらず、お休みかいなと覗いたら、作業服姿の男が数人、忙しそうに働いている。「改装」との断わりもないので、つぶれたようだ。
嗚呼!
上板橋まで歩き、昼からやってる「船底」という店に入る。

ビールとホッピー。煮込みも注文。昼は3時までだけど、いつまでいてもいいよ、と有難いお言葉。
さらに歩き、古書店で古本を購う。
『常芳庵飛徒記』 堤清七 1961 私家本
『虚空の風車』 シゲル・ヨシダ 1976 太陽
『さらば甘き口づけ』 1985 ジェームズ・クラムリー 小泉喜美子 早川書房

林屋書店均一棚。3冊で200円。
『きのふの東京、けふの東京』 川本三郎 平凡社 2009
『東京の空の下、今日も町歩き』 川本三郎 講談社 2003
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オカルトという言葉の魔力

『心霊の世界』(ロイ・ステマン 楠田順 訳 1977)を読んだのは三十年以上前のこと。降霊会とか霊媒とかがブームになった時代があり、アーサー・コナン・ドイルやウィリアム・クルックスといった著名人が、それらにコロっと騙され、なんとなくそう思い込んでいたのは、この本の影響でもあるだろう。その後続々登場してくる、オカルトを科学的に解説するといった科学者、橋本健、猪俣修二、井口和基、町好雄、あるいは批判的立場の大槻義彦なんて面々が、呆れるほどの「トンデモ」だったこともあり、オカルトを研究する科学者なんてろくなもんじゃないと、ずっと思い込んでいた。と学会の影響もあったしね。
そうした批判的な立場から書かれた本なのだろう、漠然とそう思って本書を手に取ったのだが、全然そうではなかった。
著者はデボラ・ブラムはウィスコンシン大学の科学ジャーナリズム論教授、1992年“The Monkey Wars(邦題『なぜサルを殺すのか』)”でピューリッツァー賞を受けた女性である。
ハーヴァード大学教授だった、ウィリアム・ジェイムズがアメリカ心霊学会を立ち上げ、心霊研究に没頭する日々を描いた本書に登場する研究者は、ケンブリッジ大学のヘンリー・シジウィック、フレデリック・マイヤーズ、エドマンド・ガーニー。さらに、それに賛同する立場の、アルフレッド・ラッセル・ウォレス、ウィリアム・クルックス、ジョン・ストラット(レイリー卿)、アーサー・コナン・ドイル、マーク・トウェイン、ウィリアム・バレット、オリバー・ロッジ、シャルル・リシェ、マリー・キュリー、チェーザレ・ロンブローゾという、超一流の科学者、作家、そして、批判的な立場にはマイケル・ファラデー、チャールズ・ダーウィン、トマス・ヘンリー・ハクスリー、ジョン・ティンダル、トマス・エジソンといった、これまたオールスターが揃っていた。
研究対象となった、霊媒たちも半端ではない。フォックス姉妹、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァッキー、ダニエル・ダングラス・ヒューム、レオノーラ・エヴェリーナ・パイパー、エウサピア・パラディーノというビッグネームが並ぶ。
オカルト論争というと、霊能力者、奇術師とか学者が罵り合うタケシの番組を頭に浮べてしまうけど、文化の深度というか民度というか、そんな安っぽいものとは全然違う(面子を見りゃ分かるだろうけど)。
膨大な科学的な検証の末、導き出された結論は――
さて、ここからは、おれの独断である。
総ては、言葉がいけないのだ。例えば「命」。日頃当たり前のように使っている言葉。共通の認識としては、今更疑うなんて思いもしないだろうが、「命」ってなんですか? いや「心」だってそうだ。「絶対」とか「永遠」とか理解不能な概念に、そうした言葉を与えて、おれたちはなんとか体裁をつけているだけなのではないのだろうか。
本書で取り上げらる数多くの不可解な心霊現象だって、「心霊現象」なんて言葉を纏わせて、分かった気になっているだけなのだ。科学者たちは「死後の存在」について真剣に議論するが、それがただの言葉だということには気付いていないのだよなあ。
偉そうだけど。
『幽霊を捕らえようとした科学者たち』 デボラ・ブラム 鈴木恵 訳 文春文庫 2010
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第10回「本格ミステリ大賞」候補作決定
【小説部門】候補作(タイトル50音順)
『Another』綾辻行人(角川書店)
『追想五断章』米澤穂信(集英社)
『花窗玻璃』深水黎一郎(講談社)
『密室殺人ゲーム2.0』歌野省吾(講談社)
『水魑の如き沈むもの』三津田信三(原書房)
【評論・研究部門】候補作(タイトル50音順)
『アジア本格リーグ』島田荘司選【出版企画に対して】(講談社)
『英文学の地下水脈』小森健太郎(東京創元社)
『戦前戦後異端文学論』谷口基(新展社)
『都筑道夫ポケミス全解説』小森収編集(フリースタイル)
『ミステリ・ジョッキー2』綾辻行人・有栖川有栖(講談社)
決定は、5月15日です。